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十六 夢は続くか(2)

(カテゴリ:垓下の章

城内から湧き上がる声は、いつまでも続くかのようであった。

項王は、何も語らず、ただ立っていた。
漢王の完勝、項王の完敗であった。
もし力で戦うならば、項王は漢王に負けはしない。
だが、漢王は、衆を味方に付けて、世論をもって、覇王を圧倒した。
そして漢王は、項王以外の全ての異才を、自分の側に付けていた。
彼には、張良子房と陳平の智があった。
背後を支える、丞相蕭何がいた。
そして、項王が恃む武勇ですら、もはや国士無双韓信が翳らせてしまった。漢王は、彼らの功績を全て頂戴して、項王をここまで追い詰めてしまった。一途な武人は輝きを失い、狡知に長けた盗賊が、勝利の栄光を得ようとしていた。
漢王は、優しく語り掛けるかのように、言った。
「もう、俺の勝ちだ。あきらめろ、、、」
圧するような声に掻き消されて、その声は項王に届くはずもない。
だが、項王は、応えたかのように、表情を変えた。
まるで、微笑み返したかのように、見て取れた。
彼の目は、狼の目であることを止めて、まるで優しくなったかのようであった。
かすかに、風を切るかのような音が、漢王の耳に届いた。
その、次の瞬間。
漢王の胸の甲(よろい)に、一本の矢が突き刺さっていた。
項王は、つぶやいた。
「何としても、私は勝つのだ、、、夢を、追い続けるのだ。」
彼らが対峙していた、その横で―
一人の楚兵が、密かに水の下を潜って、漢王に近づいていた。
漢王の演説に熱狂する城内は、守りに隙を作った。
楚兵は、水から這い出して、携えた弩(いしゆみ)で、漢王に狙いを付けた。
漢兵は、すでに射ようとしている敵に、ようやく気が付いた。
楚兵は四方から矢を受けて、射殺された。
しかし、その時すでに、楚兵は弩を漢王目掛けて、撃ち抜いていた。
漢王は、輿(こし)の上で、どうと倒れた。
城内は、歓声から転じて、恐慌の叫びとなった。
混乱の中で、項王は乗る桴(いかだ)の漕ぎ手に、自分の城へ戻すように命じた。
卑劣な策であったが、やむをえない。
居着いて隙を作ってしまった漢王の、咎(とが)であった。
項王は、騒然とする漢王城を背にして、対峙の場を去った。
漢王城の中では、輿の上で倒れた漢王のもとに、側近たちが慌てて駆け付けた。
「なんということだ、、、やはり、予感は正しかった!」
陳平は、顔面蒼白となって、城門に向けて駆け降りた。
彼が城門に着くと、夏候嬰ら将軍たちが、すでに漢王の周りを取り囲んでいた。
夏候嬰が、仰向けになってうめく漢王を、必死に励ましていた。
「大王、、、傷は、浅いです。そのまま、そのまま!」
彼は、直ちに医師と床を用意するように、配下に命じた。
漢王の側に駆け寄った陳平が、うろたえているばかりの周勃らの将軍を、叱咤した。
「何を、ぼやぼやしているかっ!城内の兵卒を、動揺させるな。妄動する者あれば斬ると、直ちに軍令を発せよ!」
怒る陳平の目の下から、うめき声が聞こえて来た。
「つ、、、付け加えろ、、、」
漢王の声に、諸将が一斉に注目した。
漢王は、口の端に血をにじませていた。明らかに、傷は深手であった。
彼は、傷の痛みにもかかわらず、言った。
「矢は、足に当ったと言え。足の指に、当ったと言うのだ!、、、兵卒には、そう伝えろ、、、」
漢王は、そう言って、気を失った。
「― 大王!」
諸将は、漢王の配慮に、驚き打たれた。
漢王が倒れれば、漢の行方は、どうなるか。
波乱を起こさないためにも、今は敵にも味方にも、漢王の容態をひた隠しに隠さなければならない。
張良子房が、このとき陳平の後から、駆け降りて来たところであった。
張良は、状況の全てを、見て取った。
彼は、諸将に向けて、宣言した。
「暴なる項籍めは、大王の足の指を射た。足の指ゆえに、大王の傷は、何ほどでもない。大王はしばし療養するが、この広武山の籠城は、変わらず続けられる。項籍の亡びる日は、刻一刻と近づいているのだ。心せよ、諸君!」
陳平も、夏候嬰たちも、張良の言葉にうなずくより、他はなかった。
気を失った漢王は、直ちに城の奥に運び込まれて、看病を受けることとなった。
陳平は、人をはばかる小声で、張良に言った。
「、、、もしもの時のために、関中の太子の周りを、固めておくべきです。漢の社稷は、何としても続かせなければなりません。」
だが、張良は、言った。
「その、必要はない。」
陳平にとって、張良の言葉は不審であった。彼は、聞き返した。
「なぜ!」
張良は、答えた。
「あの男は、まだ死なない。私には、分かる。だがもしこのようなところで死ぬ男ならば、天下の覇者になど、なれるわけがない。」
張良は、自信をもって、陳平に言った。
陳平は、しかし安心できず、憂いで眉をひそめた。
「項王と韓信を、勢い付かせてはならない。何としても、彼らを押し留めなければならない!」
彼は、何としても目の前の大事を取りつくろうために、頭を掻いて策を練り始めた。
張良は、それ以上に、何も言うことがなかった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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