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十七 国士動かず(1)

(カテゴリ:垓下の章

広武山は、天下万人の注目の的となっていた。

広武山での、漢王と項王の対峙―
この歴史に残る対決の一部始終もまた、全土に速やかに伝えられていった。
中原を広く広く流れる、河水(黄河)のほとり。
河を渡す船乗りたちの間でも、天下の趨勢について、しきりに話題としていた。
「案ずるな。漢王は、死んではいないさ―」
彼らの中心に座る老いた男が、船乗りたちに向けて、語っていた。
老いた男は、言った。
「漢王めが、ちと調子に乗り過ぎたな。だが、さすがに悪運強い奴よ。死ぬべきところを、辛うじて逃れおったわ。張良子房は、臥(ふ)せる漢王を無理矢理叩き起こして、漢兵に生きている姿を見せるように、せっついた。張良は、さすがに大軍師よ。漢王も漢軍も、大事にあらずだ。」
船乗りたちは、もう漢軍の内情まで耳に入れている候公に、改めて感心した。
候公は、一介の老いた船乗りとして、この乱世に身を隠していた。
彼の内には、智恵が秘められている。しかし、彼はこれまで、乱世に出馬することもなく、草莽の中で無為を過して来た。
船乗り仲間の一人が、候公に聞いた。
「、、、いつ、けりが着くのでしょうか?」
候公は、答えた。
「もう、終わる筋道は、見えている。だが、難しい。」
別の船乗りが、聞いた。
「難しい?、、、何が?」
候公は、答えた。
「二人の英雄があきらめたとき、天下は定まる。一人は、もちろん項王。彼は、もう漢王を倒すことができない。必ずや、腰折れるであろう。だがもう一人は、斉の王だ。まず斉の王が腰折れたことを見計らってから、その後に項王をあきらめさせねば、なるまいよ―」
候公は、そう言って、酒を口にぐいと含んだ。
彼は、口中で酒をゆるりと味わいながら、思案した。
(― 若い、者たちだ。)
彼は、夏の心地良い風に頬を吹かれながら、これまで天下を揺るがせて来た二人の若い英雄のことを、思った。
(理を説けば、きっとあきらめるであろう。しかし、彼ら若い者たちを捨てるのは、なんと惜しいことであろうか。)
大河を生活(なりわい)の場所とする船乗りたちは、この老いた智者の言動を、一言も逃さず聞こうと耳をそばだてていた。この変転極まりない時代の将来に、何とか手掛かりを得たいと願っての、ことであった。
候公は、だがしばし語らず、大河の流れに目を向けた。
(― この天下は、非情であるよ。)
候公は、智を隠してうそぶきながら、とうとう老いてしまった。
彼のように何もしなかった者と、あの若い英雄たちとは、その命の大きさが比較にもならない。
(天下は、思ったよりも狭い。つまらぬ者を生かすのに、大きな者を容れる余地が、こんなにも少ないとは―)
彼は嘆息して、もう一杯の酒を、口に運んだ。

彼ら船乗りたちが集う大河をはるかに下った先に、斉国がある。
斉都の宮城では、蒯通が大声で叫びながら、駆け抜けて行った。
「漢王、倒る!、、、とうとう、倒れたぞ!」
蒯通は、息を弾ませて、宮城の回廊を走り抜けた。
「漢王は、弓が胸の急所に当った。このままいけば、死ぬだろう。否。死すべし。死ね!死ね!」
蒯通は、喜びのあまりに、踊り出しそうであった。
蒯通は、斉王を探した。
彼は、探すことにすら待ち切れず、大声で叫んだ。
「大王!、、、情勢は、一変しましたぞ!漢王は、たとい死なずとも、しばらく動くことが、できません。この隙に、直ちに反漢の兵を挙げれば、漢軍を函谷関まで押し込むことは、掌を返すがごとしです。これぞ、天の配剤。天は、我らに味方せり、、、!」
蒯通は、人目もはばからずに興奮して、駆け回った。
だが蒯通は、宮城のどこにも、斉王を探すことができなかった。
「また、自邸に引き込んでいるのか、、、!」
彼は、舌打ちした。
蒯通は、斉王の自邸に急いだ。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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