«« ”十七 国士動かず(1)” | メインページ | ”十七 国士動かず(3) ”»»


十七 国士動かず(2)

(カテゴリ:垓下の章

韓信は、斉から動かなかった。

曹参、灌嬰の両将は、彼の指示のうちであった。彼らは、かつて漢王から韓信への監視役として、附属されていた。だが王位に昇った韓信を、もはや掣肘することなどできない。灌嬰は斉の別将に任じられて、今や韓信のために、斉兵を鍛えている有り様であった。
全ては、斉王の判断次第であった。
つまり韓信は― 動かないことを、判断し続けていた。
韓信は、今日も平穏に政務を終えて、自邸に戻って来た。
彼を迎えた黒燕は、型どおり主人に一礼してから、いつもの一言を付け加えた。
「― 今日も、動かなかったのですね。」
韓信は、いつもの彼女の刺す言葉を、やり過ごした。
今は、平穏に日々を過ごすべき時などでは、ない。
あるはずが、ない。
黒燕は、韓信を刺さずにはおられなかった。
韓信は、いつものように迎えた黒燕を見て、言った。
「もう天下は、戦乱の終わりに近づいている。どうして、いまさら私が動くことがあろうか。漢王の要請がなければ、動くこともない。」
そう言って、彼はいよいよ大きくなり始めた彼女の腹を、優しくまさぐろうとした。
黒燕は、彼の手から、身を離した。
彼女は、厳しい声で言った。
「どうして、動かないの!、、、あなたの、ために。私の、ために!」
彼女は、泣きそうな顔になった。
だが韓信は、そのような彼女に、言った。
「私を、縛るためなのか?、、、君の、その身体は―」
二人は、その後の言葉を継がず、立ち尽くしてしまった。
韓信は、彼女を始めとする周囲の者たちから促されても、動こうとしなかった。
彼は、蒯通に進言されて威光、自分と自分の国をいかにするべきかについて、考えて、悩もうと試みた。
だが。
日々考える度に、彼の心は、固まるばかりであった。
自分が自立してしまえば、乱世はいつまでも続くだろう。
自分は、一時の乱世の主役となって、いったい後に、何を残すのだろうか。
もう天下は、彼が漢王に与力さえすれば、決着するところまで、熟している。
蒯通も黒燕も、韓信の心を縛って、この英雄を操ろうと願った。
じつに、君主となった彼が動けば、天下は鳴動する。それほどまでに、今の彼の存在は、巨大で重い。
淮陰の人々は、韓信の誘いに応じなかった。
今より少し前に、小楽が、淮陰から戻って来た。
韓信は、小楽に依頼して、悲惨にあえぐ自分の郷里の民を、自分の国に移らせようと申し出たのであった。
だが、郷里の民の考えは、彼の望みとは、違っていた。
小楽が、説得できなかった事情を、済まなさそうに言った。
「大王に守られれば心配はいらないと、私は人々に申したのです。ですが、彼らは苦しめば苦しむほどに、ますます依怙地になってしまいました。遠い斉などに、行きたくはない。もうすぐ、戦は終わるのだ、と―」
小楽の心中には、郷里の民の一人が発した言葉が、引っ掛かって残っていた。
― にわか出世した奴は、危ない。これまで、どいつも亡ぼされている。韓信に着いて行けば、いつかきっと、皆殺しになるだろう。止せ、止せ!
小楽は、そのように口走った男の表情が、心に焼き付いていた。
もう、郷里の民にとって、王とか諸侯とかいう存在は、わざわいでしかなかった。彼らの郷里から出た韓信すら、信じられていなかった。踏み付けられる民にとって、今の韓信は恐ろしい戦争王にしか、映っていなかった。
小楽は、そのような淮陰の民の冷たい反応を、韓信に伝えることはしなかった。
代わりに、彼は韓信に言った。
「林家の媼(ばあ)さんにも、会いました―」
韓信は、身を乗り出して聞いた。
「何と、言っていたか?」
小楽は、少し肩をすぼめて、答えた。
「、、、早く戦を終わらせて、淮陰に戻って来いと。」
韓信は、彼女の言葉を聞いて、軽くうなずいた。
「― そうか。」
小楽は、残念そうに言った。
「もう媼さんは、元気がすっかり失せてしまいました。私が大王のことを告げても、今の言葉を何度も何度も、繰り返すばかりでした。媼さんも、家の人たちと共に、淮陰から動きませんでした。」
韓信は、小楽の報告を聞いて、深く嘆息した。
彼は、しばし目を閉じて、沈黙した。
それから、独り言のように、つぶやいた。
「私は、淮陰に戻れるだろうか―」
小楽は、彼に言った。
「もし、戻るならば―」
小楽は、そこから先の言葉を、切って口に出さなかった。
口の中だけで、続けた。
(、、、あなたは、終わりだ。)
だが彼は、韓信に戻るなと、言うことができなかった。
進退全ては、彼の判断のままであった。
(そうするしか、ない。彼は、国士無双なのだから―)
小楽は、韓信のことを思って、同じく瞑目した。
いつしか、小楽の目に、涙が浮かんだ。
彼は、国士無双の将来のために、泣いた。
この英雄は、自らを退くことを、望んでいるのだろうか。
しかし、そうすれば、彼にきっと栄光はないだろう。
小楽は、彼の無情な運命に、今は泣くことにした。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章