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十七 国士動かず(3)

(カテゴリ:垓下の章

蒯通は、斉王の自邸に飛び込むや、直ちに王に面会を求めた。

今日こそは、王を動かさなければならない。
蒯通は、じりじりと王を待つ間、歯ぎしりして独語した。
「趙に続いて、この斉においても、我らの期待を裏切るというのか、、、」
彼は、かつて趙においても、韓信に煮え湯を飲まされた。
趙で自立しなかった韓信は、案の定漢王の詐術に引っ掛かって、趙から追い出された。
しかし趙から追い出された韓信は、死ななかった。彼は、再び己の武勇を見せて、この斉国を掴んだ。斉は、韓信のものだ。漢王など、もう何の関係もない。
蒯通は、王を待つ間平伏しながら、大いに苛立った。
「踏み出さなければ、何も始まらないことが、分からないのか。漢王に天下を譲って、韓信にいったい何が残るというのか。どうしてこの男は、自分の栄光を求めないで、自滅を望むのであるか、、、!」
韓信が、やって来た。
蒯通は、平伏して迎えた。
蒯通にとって、この王以外に、彼の思い描く希望は残っていない。韓信が漢に帰順してしまえば、蒯通は絶望となるだけであった。
「― 大王!」
蒯通は、平伏したまま、大声を発した。
「漢王は、項王に射られた後、一度は傷を圧(お)して現れ、健在を示しました。張良子房が、漢王に無理を強いたのです。ですが、漢王は結局傷の痛みに耐え切れず、今や広武山からも退いて、成皋城で臥(ふ)せっているとのことです―」
蒯通は、自分が掴んだ情報を、韓信に示した。
韓信は、彼の前で座して、一言うなずいた。
「、、、そうか。」
蒯通は、彼の素っ気無い返事に、ますます苛立った。
「そうか、、、?大王。これは機会だと、どうして思われないのですか!」
韓信は、言った。
「漢王の傷は、やはり深かったか。今、楚軍に、隙を見せてはならない。漢王の傷が癒えるまでは、固く持久を続けるまでだろう。」
蒯通は、言った。
「何が、持久ですか!直ちに、兵を進めるのです。燕と趙を取って、河北を全て押さえるのです。漢王倒れた今、諸国が動揺して楚軍に加担することを防ぐために、これを併せるという名目を掲げなさい。河北はたちまちに陥ち、そして漢は斉の動きを防ぐことなど、できません。ここまで斉を太らせれば、大王は楚漢を操る立場にすら、進むことができます。今は、絶好の機会です。進まなければ、あなたは一国の王ではありません!」
これほどの機会を逃すことは、縦横家の恥と言うべきであった。
蒯通は、縦横家の自負をもって、力を込めて韓信に語った。
しかし―
韓信は、答えた。
「そんなことをしたら、私と漢の関係は、終わってしまう。戦乱が、続いてしまう。それは、できない。」
蒯通は、声を高くした。
「大王!」
しかし、韓信は彼の進言を、聞き流した。

とうとう、夏は終わってしまった。
秋がやって来て、その秋もまた、駆けるように過ぎてしまう。
この間に漢王は、傷を癒やすついでに、関中でゆるりと郷里の父老たちと慰労の宴会を開いたりして、過ごしていた。彼は健康を再び取り戻し、戦の最後の仕上げに、取り掛かっていた。漢に付け入る隙は、季節が変わると共に、過ぎ去ってしまった。
漢王は、弁士の陸賈を楚軍に派遣して、和睦の打診を始めた。
和睦の条件は、劉太公と呂后の返還。楚がそれさえ認めれば、占領した土地を返還してもよいとまで、持ち掛けた。
「天下平穏のために、民草の生命を守るために、よろしく楚漢両国は矛を収めようでは、ありませんか。もう、天下は戦を望んでおりません―」
陸賈は、項王の前で、諄諄と説いた。
もちろん、漢の本心は、楚の保全など考えていない。和睦は、一時の策に過ぎなかった。だが、すでに追い詰められた楚軍にとっては、和睦するより他に何の選択肢も残されていないのが、実情であった。
和睦の使者の言葉を聞く項王の後ろには、季父(おじ)の項伯が、控えていた。
彼は、無言で甥を見つめていた。項氏一族の長老である彼は、覇王の甥にとっても、目上の存在であった。だが、項伯にとって、この甥はとても彼の手の内に収まるべき子供ではなかった。
項伯は、密かに和睦のための工作に、奔走していた。
彼は、漢との交渉で、項王以外の項氏については、戦後に罪せず命を赦免するという条件を、取り付けていた。罪を全て彼の甥になすり付けて、一族を安泰にさせることを、項伯は選んだ。
(やむを得ない、ことだ。この甥は、我ら一族にとっても、わざわいであった―)
項伯は、目の前の甥を無言で見据えながら、思った。
項王は、一族からも見放されて、全く孤立していた。
だが項王は、和睦の提案を、突っぱねた。
陸賈の説得も、受け容れられなかった。項王は、漢と対峙する構えを、まるで崩そうとしなかった。
しかし、楚国は、もう戦えないほどに、疲弊していた。
この先まで戦を続けることは、許されるものではなかった。楚の官も民も、今は項王に背を向けていた。
項王は、自分の国にすら、見離されようとしていた。
それでも、項王は、負けを認めることができなかった。
漢の四年は、楚、漢、斉ともに動くことなく、終わりが近づいていた。

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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