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十八 大風の歌(1)

(カテゴリ:垓下の章

不思議なことが、起った。

これまで断固として漢王との和睦を拒否して来た項王が、すみやかに溶けた。
候公という正体不明の老人が、覇王城の項王のもとに、ふらりと現れた。
彼は、しばらく覇王城に滞在した後、鴻溝を渡り、対岸の漢王城にやって来た。
漢王城の門を叩いた候公は、門衛に言った。
「張良子房に、伝えるがよい。和睦は、成りましたと―」
漢の陣営は、突然の知らせに、一驚した。
真偽を確かめようと、張良と陳平の両軍師が、この老人との会見に及んだ。
候公は、すっかり脂の枯れた、好々爺であった。
彼は、にこにこと笑いながら、両軍師と会談した。
候公は、楚軍との間に和睦の条件から盟約の日時まで、すっかり取りまとめて来た。
「劉太公と呂后は、一両日のうちに、漢王に戻されます。和睦の条件は、この鴻溝を境として、東西を楚漢とする。異議は、ございませんな。」
これまで漢軍が、どんなに手を尽して工作しても、項王は折れなかった。
その項王を、この老人はいとも簡単に説き伏せて、和睦に至らせてしまった。
張良は、答えた。
「異議は、ございません。」
候公は、笑みの皺を、深くした。
「これで、天下は泰平です。好!好!」
候公は、手を叩いて喜んだ。
この老人が、どうしてこれほどの難事を、解決できたのであろうか。
居合わせた陳平は、まるで信じることができなかった。
しかし、張良は違った。
彼は、候公の仕事を称えて、彼に薦めた。
「よろしく大王の御前に、進まれよ。老爺はそれを、お望みでしょう。」
候公は、うなずいた。
「もとより。」
張良は、すぐに用意するように、奥に伝えさせた。
陳平は、どうして張良がこの老人と、打ち解けるように語ることができているのか、いまだに不信であった。
彼は、候公に聞いた。
「どうして、項王は折れたのですか?」
候公は、答えた。
「彼は、悟ったのです。」
陳平は、聞いた。
「何を。」
候公は、言った。
「あなたには、分からぬ。」
陳平は、その言葉にむっとした。
しかし張良は、言った。
「老爺の功績は、漢軍中で第一のものと、なりましょう。いや― あなたは、今の今まで、世に出てこられなかったお方だ。名利などについてあなたに申すことを、私は恥じます。ただ、私よりあなたに、深く感謝させていただきたい。よくぞ、項王を説き伏せられてくださった。あなたは、救国の士です。」
張良は、深く長く、候公に拝礼した。
言うにや、及ぶ。
張良は、この風のように現れた老人を見るや否や、かれが他意無く天下のために、この和睦を斡旋したことを、理解した。
(― この者は、国のため、人のために動いたのだ。そういう人間が、この世にはいる。この候公が、そうなのだ。)
張良は、ゆえに候公を信じて、感謝の拝礼をした。
候公は、彼の感謝に応じて、静かに拝礼して返した。
奥では、漢王に謁見する用意が、万事整った。
「御前に出ても、平伏などはしませんぞ、、、私は、項王の代理だ。」
候公はそう言って、いたずらっぽく笑った。
張良は笑い返したが、陳平は苦い顔のままであった。

傷もすっかり癒えて漢王城に戻って来た漢王は、突然の知らせを受けて、直ちに候公と謁見に及んだ。
候公は、漢王の前に出ても、軽く一礼しただけであった。
侍従の郎たちが、老人の無礼に憤って、棒で打ちのめそうと、身構えた。
漢王は、制止した。
「やめい、、、俺の手に、入り切らぬ老人だろう。」
彼は、今は亡き酈生と初めて会ったときのことを、思い出した。
酈生は、当時まだ沛公と呼ばれていた漢王の無礼な応対に面して、毅然として人に対するべき正道を説いた。人の上に立ったからといって、他人を侮って従われると思うのは、とんでもない間違いであろう。今や酈生と会見したあの頃からさらに出世していたが、彼はいまだ侮りを通すことを、控えることができた。だがやがて天下唯一の覇者となったとき、彼が今のように自制できるかどうかは、自分にすら分からなかった。
漢王は、言った。
「候公。お主の名は、以前に船頭の口から聞いたことがある。智者が、今になってついに立たれたか。見事な、功績であったよ!」
漢王は、喜んで候公を手招きした。
だが候公は、招きに応じることなく、ゆっくりと御前の場に座り込んだ。
漢王は、苦笑した。好々爺然としているが、彼の内実には、気骨があった。
漢王は、候公に会った。
「平国君と、為そう。」
項王と和睦を仲介して、国を泰平にしたという意味であった。
候公は、笑って答えた。
「なんの。私などはさしずめ― 傾国君とでも、称してください。かの楚国を、この舌で傾けてしまいました。」
彼は、自分の果たした役割について、全てを見通していた。和睦の後に、項王の楚は、傾くであろう。候公は、それを分かった上で、項王に説いたのであった。
漢王は、手を打って大笑した。
候公もまた、笑みを絶やさなかった。
漢王は、聞いた。
「何を、望まれる?」
候公は、答えた。
「何も。」
漢王は、言った。
「一国でも、差し上げますぞ。」
候公は、首を振った。
「名利を求めるならば、私はもっと早くに、世に出ていました。私は船乗りとして暮らし、老いて、後は消え去って行くのみです。ただ、私の心の底に残っていたこの世への痛苦が、今となって私を動かしたのです。私の役目は、もう終わりました。何も、望むことはありません。」
漢王は、彼の言葉を聞いて、笑う中にも複雑な表情を見せた。
候公のような真の士は、もうこれから後、彼の手の届かないところに行ってしまうであろう。
漢王は、高く昇り過ぎた自分の地位に対して、鈍いむずがゆさというべき感覚を、座っている腰の下に感じる気分がした。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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