漢王は、聞いた。
「彼に、何を語られたのか。」
候公は、答える代わりに、泥で封じられた一巻の書簡を、取り出した。
「項王からの、贈り物です。どうぞ、受け取られよ。」
候公は立ち上がり、ようやく漢王に親しく近づいて、手渡した。
漢王は、封を開いて、中身に目を通した。
「歌で、あるか―」
書かれた内容は、長くもなかった。
大風起兮雲飛揚
威加海内兮歸故郷
安得猛士兮守四方?
― 大風起コリテ、雲、飛ビ揚ガル
威ハ海内ニ加ワリテ、故郷ニ帰ル
安クニカ猛士ヲ得テ、四方ヲ守ラシメンヤ?この歌は、貴公のための歌だ。貴公に、差し上げよう。私のための歌は、別にもう一つ、用意してある。世々、歌い継いでほしい。
楚人項籍
候公は、言った。
「大風の、歌です。天下を威によって治めた者が歌うに、ふさわしい。」
歌は、楚の歌謡の形式で、湧き上がるような昂揚感に、満ちあふれていた。
たった一聯三句の歌であったが、簡潔な中に宇宙の全てが込められているような、壮大さがあった。
「大風の、歌―」
漢王は、この歌を、口中で吟じた。
一度読み終わると、また声を挙げて繰り返した。
それほどに、一読して心に沁みて、繰り返し歌わずにはいられない。見事な、歌であった。
「これは、風の歌だ。風の音が、聞こえてくるようだ、、、」
彼は、まるで上の空となって、つぶやいた。
候公は、莞爾(にこり)とした。
彼は、覇王城で項王の前に進み出て、説いた。
(項王。あなたは、見事な人間だ。だが、あなたは戦っても戦っても、人を殺すことしかできない。それは、今の時代に産まれてしまったあなたの、運命だ。この時代は、あなたを決して容れることができず、どんなにあなたが怒っても、人は決して変わらない。もう、やめなさい。あなたもまた、分かっているはずだ―)
じつに、項王には、この候公のように語ってくれる人すら、側にいなかった。
もし、叔父の項梁が生きていたならば。
きっと、彼の言葉ならば、項王を止めることができたであろう。
しかし、項王は高い魂のままに、孤独であった。
強すぎて恐ろしすぎる彼の心の中に入ることができたのは、結局連れ添う虞美人、ただ一人だけであった。
候公は、項王を恐れることなく、彼に切々と説いた。
彼の言葉は、項王の胸を突いた。
項王は、候公の前で泣いた。
候公は、子供のような彼の姿に、優しくうなずいた。
虞美人が、今日も項王の隣にいた。
彼女は、泣く彼に、寄り添った。
「泣くと、よいさ。今は、せいいっぱい、泣くとよいさ。あなたは、よくやった、、、」
虞美人もまた、泣いた。
彼女は、項王と彼女の結末が近いことを、とっくに感じ取っていた。
結局、寄り添って来た二人の魂は、この世に容れられることがなかった。
「― 本当に、私はあなたに会えて、幸せだよ!」
虞美人は、大きな子供を慰めるように、項王の背中を撫ぜた。
項王は、候公の勧めに従って、漢との和睦を受け入れた。
彼は、もう戦で勝てないことを、認めたのであった。
和睦を受け入れた項王は、自作の大風の歌を書き下ろして、漢王に渡すよう候公に頼んだ。
彼の夢は、破れ去った。
傷付いた心を引きずって、彭城に戻らなければならない。
力で勝てなかった彼は、せめて歌で漢王に勝とうとした。
大風の歌に描かれた英雄の姿は、項王が望んだ己の夢の、姿であった。
しかし、彼はいま、威を示すことあたわず、多くの猛士を失い、疲れて郷里に帰る。
彼の果たせなかった夢を、漢王、あなたは、見ることができるか。
― 私の魂は、あなたより高い。はるかに、高い。
それが、項王が大風の歌に込めた、漢王への言葉であった。
大きな風が、起ります
雲が揚がる、飛び揚がる
私の威は、海内を照らした
いま、懐かしの故郷に帰り着く。
しかし猛士よ、どこにいるのか?
私の国と故郷を、守っておくれ!
漢王は、歌を口ずさみながら、胸を詰まらせた。
「何と高く、孤独であるか―」
彼は、やがて泣き始めた。
孤独であることは、漢王もまた同じであった。
もう、彼は誰とも、対等でない。
この世にいるのは、彼の臣下か、あるいは彼の敵だけであった。
項王と漢王は敵同士であるが、孤独であることだけは、同じであった。
漢王は、涙ながらに、言った。
「― 惜しい。あの子が、惜しい。」
候公は、言った。
「その涙で、あなたは天下人となる資格があります。やがて、あなたは項王を討ち―」
候公の言葉に、漢王はうなずいた。
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