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十八 大風の歌(3)

(カテゴリ:垓下の章

候公は、続けた。

「そして、その後に韓信もまた、消し去ることでしょう。それは、時代が為すことです。」
漢王は、彼の言葉を、打ち消すこともなかった。
「そう、ならずにはいられない。もう俺には、臣下か敵しか、得られないのだ。」
漢王の目算は、覇者として冷酷であった。
だが、候公は、もはやそのような漢王を、咎めなかった。
候公は、言った。
「この天下は、泣いて悲しんでいます。この悲惨は、一刻も早く終わらせなければ、なりません。終わらせるのは、漢王。あなたしか、いない。だから、私もまた、あなたのために動きました― 張良子房や、韓信と同じように。」
漢王は、言った。
「俺は、あなたたちの努力を、全てただ取りしている。全く、悪人だ。」
候公は、言った。
「あなたは、天に選ばれたのです。今さらあなたの善悪など問うても、しかたがない。あなたの敵は、天下の敵なのです。消し去るより他は、ないのです。」
漢王は、言った。
「だが、俺は今日の涙を、墓の中まで持っていくより、他はない。俺は、悪人だからな。勝ち残るためには、これからも何だってする。後悔は、しない。」
候公は、今や漢王に敬意を表して、深く拝礼して言った。
「天下は、人の涙を土の下に埋め捨てながら、結末に向かって行くでしょう。これで、よいのです。こうするしか、ないのです。大王。私は、あなたの涙を見届けるために、動いたようなものです。涙なくしては、この結末はやり切れない―」
今や、候公もまた、うっすらと目に涙を溜めた。
漢王は、いま一度、大風の歌を吟じた。

大風起コリテ、雲、飛ビ揚ガル
威ハ海内ニ加ワリテ、故郷ニ帰ル
安クニカ猛士ヲ得テ、四方ヲ守ラシメンヤ?

「お前たちも、歌え、歌え!」
彼は、侍従の郎たちに、命じた。
男どものぎこちない唱和が、城内に響いて、しばし奇妙であった。

候公は、その日のうちに、城から去った。
彼は、漢王に別れの挨拶を、述べた。
「もう、御前にまみえることも、ありますまい。この老人は、再び草莽の中に戻ることにします。」
候公は、言ったとおりに、全ての恩賞を受け取らず、再び単身で、船の上の生活に戻ろうとしていた。漢王から受け取ったのは、ただ称号だけであった。平国君― いや、傾国君で、あるか。
漢王は、候公の言葉に、莞爾(にこり)として返した。
漢王城は、秋の日の中であった。
前線とは思えないほどに、山の下に向かう城門には、のどかな空気が支配していた。
老人を見送るために、張良ら主だった家臣が、漢王の後ろに居並んでいた。
漢王は、進んで候公の手を取り、別れを惜しんだ。
「― 傾国君よ。」
漢王は、候公を、与えた称号で呼んだ。
「お主に、何もせぬわけにはいくまい。何か、余にできることを申してくれないか。余は、覇者であるぞ。」
候公は、漢王の問いに、笑って答えた。
「ならば― 一言、申しましょう。」
漢王は、聞いた。
「何か、傾国君。」
候公は、答えた。
「覇者ならば、我ら民の生活に、手を出されるな。乱世が終わり、治世となった後には、王朝の害こそが民にとって、恐ろしい。秦朝の、末路に学びたまえ。」
言われた漢王は、大いに哄笑した。
候公の言葉にこそ、民の本音があった。即位でも王朝でも、何でも好きにするがよい。しかし、天命を受けたなどと勘違いして、民に苛法を与え、酷薄貪欲な官吏を送り付けて支配し、好き勝手な政策を行なうならば、いずれ民は黙っていない。王朝と民とは、仁政だの忠義だのといった美辞麗句に華々しく彩られながら、その実情は哀しいかな、常にすれ違いの関係であった。
漢王の後ろに控えていた張良もまた、候公の言葉を聞いて、笑った。
その横には、陳平も出て、見送っていた。
陳平は、かゆくもない頬を掻きながら、独りごちた。
「確かに、王朝は民の害だ。だが、害を止めるわけには、多分いかないけれどな、、、」
彼は、候公の言葉に、笑いもしなかった。
上に立つ側には、上に立つ側の事情がある。王朝が民を強いて動かさなければならない時は、やがて必ずやって来るだろう。
だが陳平は、上に立つ側にとっての事情を、この場で言い立てることは、しなかった。ただ、心の中で、彼とは生きる原理が違う老人のことを、当てこすっただけであった。名利もなく、世のために奉仕する人間などは、陳平にとってしょせんお目出度い人間に過ぎなかった。評価するにも、値しない。
(― 韓信の、ように、、、)
陳平は、心の中で、うそぶいた。
彼の心とは関係なく、城下には爽やかな風が吹いていた。
まるであの歌の、ように。上空には、雲が筋を描くように吹き上がって、青の上を白く流れていた。
別れの挨拶は、終わった。
候公は、城から降りて行った。
「― さらば、です。」
そう言って、彼は漢王のもとを、去って行った。
そして二度と、表の世界には、現れなかった。

          

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