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十九 最後の、戦へ―(1)

(カテゴリ:垓下の章

漢四年、九月。

漢王と、項王との和睦は、成立した。
和睦の条件は、二つ―
一つ、鴻溝を境として、東を楚、西を漢とする。
二つ、楚に留められている漢王の家族を、漢に返還する。
この、二条件であった。
一つ目の条件には、あいまいな所があった。
すでに梁の地を支配している彭越の立場は、どうなるのか?
淮南王に封じて項王を侵略させている、黥布の処遇は、どうするべきか?
漢王はこれらに構うことなく、項王と和睦した。
もし亜父范増が生きていれば、盟約の前に彼らを占領地から撤退させることを、要求したであろう。だが漢王は、彭越と黥布に対して、そのような命令を下せるわけがない。このように戦後の処理が、少しも明らかでない和睦であった。だが、漢との交渉役であった項伯は、あっさりとこの和睦案を受けた。項伯は、すでに漢の手の内であった。
盟約の日、鴻溝のほとりに設けられた祭壇のもとに、楚漢の代表者たちが、集まった。
漢王城から、漢王の一団が現れた。
覇王城から、項王の一団が現れた。伴った馬車の中には、漢王の父の劉太公と、漢王の正后である呂后の両名が、丁重に乗せられていた。
太公と呂后を乗せた馬車は、漢王の陣営に届けられた。
「よくぞ、ご無事でした―!」
漢王は、馬車から降りた父親を、親しく手を取って迎え入れた。
父親は、彼とは違って、ただの農夫でしかない。息子のために風雲に巻き込まれて、死ぬ思いをさせられた。気の弱い太公は、かつて実家の農作業もせず悪事に精を出すばかりであった不肖の息子に迎えられて、ただ腰を折ってうなずくばかりであった。
漢王の陣営から、万歳の歓呼が起った。
その巨大な唸りに、太公は腰を抜かしてしまった。息子が操っている組織の巨大さは、田舎者の父にとって、生涯を掛けても理解できるものではなかった。
漢王は、頭を低くして、孝子のごとく父親に接した。
以前、父を烹(に)殺すならば羹(あつもの)を寄越せ、などと暴言したことなど、すっかり忘れたかのような、彼の振る舞いであった。漢王は、この場で彼が演じるべき役割を、きちんと計算していた。
太公の後ろには、呂后が付き添っていた。
漢王は、父親と再会を終えた次に、正后のそばに近づいた。
「お前もよく、父を守ってくれた、、、」
彼は、演技を続けて、妻にも声を掛けようとした。
だが呂后は、手を合わせて拝礼したままで、夫に言葉を返さなかった。
彼女の目は、あくまでも冷たかった。
口を極めて罵ってやりたい衝動が、彼女の内に荒れ狂っていた。
しかし、今の彼女は、この憤りを心の奥深くに、押し留めることにした。いま夫を罵れば、一時の快と引き換えに、正后の位を失ってしまう。彼女は、王の正妻の地位を、絶対に守り通したいと思った。呂后は、これから先、正后の地位もて夫と戦い、戦い抜きたいと、暗く静かな炎を心に燃やしていた。
(夫のあなたは、悪。ならば妻の私は、大悪になってやるさ。私だけは、あなたにだまされはしないよ―)
呂后は、観衆に向けた作り笑いを続ける漢王に対して、内心でせせら笑った。
それから彼女は、疲れ切ってしまった太公を連れて、漢王城に戻っていった。
妻の心中は不穏であったものの、とにかく漢王は、いま衆目の前で、家族を取り戻すことができた。
残るは、項王との盟約だけであった。
祭壇の上に、二人の王が、進んだ。
林立する、旗幟の数々。
打ち鳴らされる、荘厳な軍楽の調べ。
今日も晴れ渡る秋の日の下に、楚漢の盟約は交された。
祭壇の上では、盟約のしるしとして、一頭の犠牲の牛が、屠られた。
獣の血の匂いが、祭壇の上から、風に乗って運ばれていった。
項王は、漢王に相対して、言った。
「― もう、今後あなたとは、会わないだろう。」
漢王は、項王に相対して、言った。
「― たぶん、そうなるだろう。」
項王は、言った。
「あなたを射たことを、私はあなたに、謝ったりはしない。」
漢王は、言った。
「戦時だ。お前は、当然のことを、したまでだ。お前に謝られることなど、俺は望んでいない。」
二人の間には、しばしの沈黙が流れた。
同じ楚に生まれた二人は、生き方がまるで違っていた。
二人が戦うことは、必然であった。
この和睦など、見せ掛けのものでしかない。いずれ、二人の間には、結末がやって来るだろう。
しかし、今は盟約のために、祭壇の上であった。
漢王は、犠牲の流した血を皿に取って、一口啜(すす)った。
それから、皿を項王に突き出して、言った。
「飲め― 義弟。」
項王は、漢王の諧謔に、笑いもしなかった。
「この世に、義など―」
項王は、皿に残った血を飲み干して、言った。
「どこにも、ない。」
そう言って、飲み干した皿を、地に叩きつけて割った。
漢王は、項王の駄々をこねたような表情を見て、微笑んだ。
「じゃあな― 覇王。お前がくれた歌は、真に俺の心を突いたよ。ありがとう。」
漢王は、項王に感謝した。
祭壇の下から、盟約の成立を祝って、万歳の声が湧き上がった。
いつまでも続く歓声であったが、漢王は、背を向けて祭壇を降りて行った。
項王は、彼の背中を見送ろうともせず、目を上に向けて、高く蒼い今日の空の色を、飽きぬように眺め続けた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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