背の高い韓信の視線から見れば、彼女は見下ろすように下にいる。彼は、その視線から彼女に言った。
「阿梅、俺はな―」
「はい?」
彼女は、韓信を見上げた。今日も、竹の梳(くし)を髪に留めている。結い方も、申し分ない。その辺は、ただの田舎娘としては上出来である。だが、あの彭城で見た虞美人とは、今のままではとても比較になりそうにない。
(比べるほうが、おかしい。あの女は、天下と張り合うような女だからな。この娘は、淮陰の土に生きる娘だ。)
だが淮陰にいては、この大きすぎる天下は見えない。自分は、外に行こうと思う。
「― いつか、淮陰に戻って来る。」
「え?」
「これから俺は、前に一歩踏み出そうと思う。これからどうなるのか、全く分からない。ただ、俺は自分の力を信じて前に進んでいこうと思う。どこまで行けるかは、わからない。だがな、いつか必ず、この城市に戻って来るぞ。この林家のところに、俺は戻って来るからな!」
彼女は、彼が何を言っているのかよくわからなかった。
「戻って来るって― 韓さん、またどこかに行くんですか?帰ってきたばかりなのに?」
彼女は、きょとんとしていた。つい最前までも、南昌に何ヶ月も行っていた。今度は、また別のところに厄介になりに行くんですか?― 彼女の顔を見ると、そう思っているに違いなかった。
「淋しくなりますね、、、でも今度こそ、韓さんにとって良いことになると、いいですね!」
「良いことかどうかは、わからない。でも、俺はやることに決めたんだ。」
「じゃあ、、、じゃあ、、、」
「じゃあ?」
韓信は、決意に満ちた真剣な目をしていた。だが阿梅は言った。
「―せっかくだから、、、今日ぐらいはここで食べて行かれたら、どうですか?私、作って、、、あげます。」
(なにを、子供相手に真剣に語っていたんだろう?ちょっと格好悪かったな、、、)
さっきのように少女に真剣に語ってしまうあたりが、韓信の韓信らしいところであった。
小一時間経って、韓信はこの家でなじみの食事の席に着いていた。すでに、媼さんも帰ってきた。
「今度はどこに行くんだい、王孫?」
林媼さんが、聞いた。
「下邳だ。行ったら、いつ帰ってくるかわからん。」
韓信が答えた。つい最近収穫して搗(つ)かれたばかりの麦が、食卓に出ていた。魚汁と混ぜて食べる。魚汁は、阿梅が作ったものだ。なかなか上手な塩加減で、さっきから韓信は誉めることしきりであった。彼が誉めるたびに、彼女はあからさまに恥ずかしそうに横を向いたり下を眺めたりする。いつもと全然変わらない風景だった。
林媼さんが、言った。
「いつ帰ってくるかわからん、か―」
彼女は、感づいていた。
この子、今回は本気だな。本当に、長い間帰って来ないかもしれない。
媼さんは、韓信に言った。
「下邳で、何を目指すんだい?良かったら、教えてくれよ。」
韓信は、答えた。
「天下一の、知者を目指す。」
「天下一の知者になって、この城市に帰ってくるってわけだね?」
「そうさ。」
「そうかい―」
それ以上は、聞かないことにした。もし目標が決まったのならば、この子はどんどん上に昇っていくだろう。それだけの、能がある男である。私などが彼の進む道について、口を挟むことなどできはしない。彼女は、そう思った。
しかし、彼女から見れば、この青年は人との付き合い方の方面で、まだまだ学ぶべきことが多いように見えた。そこで、ちょっと彼の足元をすくってみたい気になった。
林媼さんは、韓信と対座して食べている座から、横を向いた。少し離れて、阿梅が正座していた。彼女は、食欲旺盛な韓信に、もう一杯魚汁のお代わりを持って来ようかどうか思案しているようであった。
「ねえ、阿梅―」
「はい?」
「この王孫は、どうやらこれから大身になりそうな予感がするよ、、、お前からも言ってやりな。あなたが大身になったら、淮陰に帰ってきて私を嫁にもらってください、って!」
「ぶっ!」
媼さんの言葉を聞いて、韓信は魚汁を豪快に吹き出した。
媼さんは、汚いね、ちゃんと拭きなさいと言って布を彼に渡しながら、彼に続けた。
「前にあんたは言ったじゃないか。一国の王になって、林家の宗家から阿梅をもらう許しを得るって?忘れたんじゃないだろうね。言っとくけれど、あんたが大身になったら、のことだよ。ひょっとして今後あんたが大身になったときに、この娘を忘れないようにしてほしいって言ってるんだ。己が富貴になって昔の人を忘れるようでは、人間とはいえないよ。ほら、阿梅からも言ってやりな。韓さん、淮陰のことを、私のことを忘れないでくださいっ、て!」
媼さんは、からかって阿梅に言った。阿梅は顔を真っ赤にして、面白いようにあたふたしていた。
慌てる阿梅には悪いが、媼さんは彼女を出汁(だし)にして、韓信に聞かせるために言った。
「男はね、図に乗ったらどこまでも飛び上がって行くものだ。それはよいことで、でも逆に危ういことだ。誰かが下から糸を付けてで引っぱっておかないと、飛び上がったままどこかに消えてしまうかもしれない。この王孫はね― 才がある子だけれど、私が見るところではまだ女の優しさも、それに怖さも分かっていない。だから、女たらしじゃない。それはいいところだけれど、逆にだまされやすいかもしれない。こういう子にはね、いつかは信頼できる娘が、そばに必要になるんだよ。たぶん、この王孫はかなりの男になるだろう。その時に駆けつけてやりな。きっと、お前にとっても得になるような気がするよ!」
「媼さん!阿梅がもう、逃げ出しそうだよ。それぐらいで、まあそれぐらいにして、、、」
韓信も阿梅も、すっかり媼さんにしてやられてしまった。もうこの座に座り続けることが限界な阿梅に、媼さんは命じた。
「王孫。もう一皿、出してやるよ、、、阿梅、肉切ってやりな。」
「は、、、はい!」
阿梅は、奥に駆けていった。外は、雨が降っていた。この家で韓信が食事をすることも、今後しばらくは無いことであろう。



