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十八 博浪沙の男(1)

(カテゴリ:101兵法の章

韓信は、下邳に再びやってきた。

だが、黄生はそのとき不在であった。彼が担当している門を覗いたが、いなかった。他の門番に聞いたら、一月ほど外に出てくると言い残して、去ってしまったという。彼は、やむなく南郭の韓簫子の屋敷を訪ねた。
屋敷の中には麗花がいて、前と同じ奥の間に案内してくれた。今日の彼女は、軽快な色合いの衣を着けている。
「雨が多い季節ですからね。明るめの服にしているんです。」
今日の彼女は、前回とも違って、まさしく商家の清楚な娘であった。細やかに、自分を変身させる娘だ。実はもっと別の姿も、隠し持っているのかもしれない。
奥の間の書物がぎっしり詰まった書棚に囲まれて、今日も韓簫子はいた。
「― やあ、また会えましたね。」
そう言って、韓信と対座する席に着いた。

「黄生は、一月ほど外出しておられるとか?」
「彼は今、江東に行っているのです。」
「江東?」
「そこに、彼のもと弟子の一人がこのたび住居を移したのでね。近況を聞きに、ふらりと旅に出たのです。そのうち戻ってきますよ。」
韓簫子は、そう言ってから席を外して。外の光を取るために窓の簾(すだれ)を半分ほど上げた。普段彼は昼間でも、この書庫で読書をする時は、燭台を灯して明りを取る。外から見えないようにするための、念のための注意であった。ほの暗い書庫の一角に、日の光が射し込んだ。
韓簫子は、韓信に彭城でのことを聞いた。韓信は、劉邦の知己を得たこと、劉邦と張耳とのただならぬ関係、それからその後の騒動の印象などを伝えた。それから、彼は言った。
「はっきりと断言はできないのですが― 彼は、相当に腹黒いですよ。」
韓簫子は、相槌を打った。
「やはり。」
「私は思うんですが、ひょっとしたらあの彭城での騒動で張耳たちを逃したのは、彼ではないかと思います。」
「なるほど。たぶん、そうでしょうね。それならば、これから張耳の地盤を受け継ぐのは、劉邦となるでしょう。」
「彼も、泗水の亭長でありながら相当に裏のある人物のようです。私には、その実態はよく分かりませんが。」
「この楚には、表からは見えない世界があるのですよ―」
麗花が、煎った麦を煎じた麦湯を持ってきてくれた。韓簫子は、麦湯の香りを楽しみながら、一服した。それから韓信も飲んだ。
しばし、座に沈黙が流れた。
それから、韓信は以前と同じ問いを、もう一度目の前の男に問うた。
「韓簫子― もう、教えてくださってもいいでしょう。あなたの正体は、一体何なのですか?」

彼は、微笑んで韓信に言った。
「韓子― あなたは、黄生の下で、学ぶことを決意したというわけですね?」
「もとより、そのためにこの下邳に来ました。私は、これまでのらくらと生きてきました。するべきことが、見つからなかったからです。でも、黄生が示してくれた学問の道は、私がこれまで知らなかったものでした。私は、それに強く惹かれます。どうか、あなたからも黄生に私を入門させてくれるように、取り計らっていただけませんか?」
その言葉を聞いて、韓簫子はもう一度、念を押した。
「秦の秩序に逆らう道ですよ。表からは見えない、もう一つの世界で学ぶことになります。それでもよいですか?」
韓信は、言った。
「天下が動くかもしれないときに、無知でいることは、できません。」

「よろしい。」
韓簫子は、そう言うと再び立ち上がって、先ほど上げた簾を下げた。書庫は、また暗くなった。韓簫子は、燭台を灯した。暗がりの中に、二人の顔が浮かび上がった。
韓簫子は、韓信の前に座り直した。一呼吸が流れた。その後、おもむろに彼は自分の正体を言った。
「私の姓は姫、名は良、字は子房。これが私の本当の名前です。」
韓信は、彼の本名を繰り返した。
「姫、良、子房、、、」
しかし、その後小さく驚きの声を挙げた。
「姫っ?姫姓なのですか、あなたは!」
姫(き)姓とは、周王室の氏族姓である。周王室から正しく分かれた末流の王侯貴族だけが持つ特別な姓だ。戦国諸侯では、燕、魏、韓などの王室と、そこから別れた直系の貴族だけがこの姓を受け継いでいた。
韓簫子、いやその本名である姫良は、それからさらに続けた。
「我が家は韓王国の一族で、祖父、父の二代に渡って韓の宰相を勤めました。祖父は韓の宰相となって国のために土地を開き張(ひろ)げる功績をなしたゆえ、王から張開地(ちょうかいち)の名を賜りました。以降、その後裔は、張姓をもって別姓としております。そのため、この私は通常は、姓名を張良、字を子房と名乗っております。」
彼の言葉を聞いたとき、韓信はさっきよりもさらに大きな驚きに襲われた。
「韓の宰相の子で、張良、、、するとあなたは、博浪沙の張良!」
張良!
韓信が、その名を知らないはずがない。
今から五年前、統一後に国内を巡幸する事業を始めた始皇帝の車を、一本の大鉄槌が空から襲撃した。旧魏の都の大梁の近くの、博浪沙(はくろうさ)と言う名前の土地であった。賊は、重さ百二十斤の大鉄槌を鋳造して力士に投げさせ、始皇帝を車ごと破壊しようと企んだのであった。だがその鉄槌は、わずかに反れて横の属官の車に当ってしまった。属官の車は全壊したが、始皇帝は無事であった。始皇帝は、直ちに犯人を捜索させた。主犯者は、滅ぼされた韓の宰相の子、張良であることがわかった。張良を求めて全土がくまなく捜索されたが、結局今まで見つかっていない。以来、「博浪沙の張良」と言えば、子供でも知っている名前であった。
その博浪沙の張良が、今目の前の男であるというのか。始皇帝暗殺を企んだ勇士どころか、その姿は繊細な君子ではないか。
韓信は、冗談だろうと思った。しかしその時、一旦引っ込んでいた麗花が、いつの間にか韓信の後ろにいた。これまでに見せたことのない、鋭い目つきを彼に投げ掛けていた。彼女はもし彼が怖気づいて逃げ出すようなことがあれば、それ相応の処分をするつもりなのであった。
張良は、構わず韓信に語り始めた。
「それでは、私がこの下邳に来たいきさつを、あなたに語って聞かせましょう―」

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章