張良は、自分の生い立ちを全て、韓信に話し始めた。包み隠さず話すことが、一歩を踏み出させようとしている青年への、張良の礼儀であった。
「私は、韓の宰相張平の子の一人でした。幼少の頃に、父親はこの世を去りました。
私の少年期、故国の韓は秦に年々国の要地を削られる一方でした。私が成人となった頃には、韓はもはや単独では国の存続は不可能な状態となっていました。それでも小国は哀れなもので、現状は絶望的であったのに、政府の上層部は何とか策を弄すればこのまま国は存続できるだろうなどと、甘い希望を懐いていました。
策の対象は、最大の憂いである秦でした。すでに、今の秦王の代となっていました。まず鄭国(ていこく)という水工を、秦に放って売り込ませました。彼は、関中盆地の水不足を解消するために灌漑用水を作るべきことを、秦の政府に説いて回りました。その目的は、土木工事に国力を費やさせることによって、外への軍事行動ができないようにさせるものでした。目論見どおり秦は総力を用いて灌漑用水の建設に着手し、その間だけ韓への侵略はやみました。しかし、工事は予想外の速さで完成し、秦の国力は更に大きくなりました。秦の国力をあなどっていたのです。姑息な策は、全くの裏目に出ました。
秦王は幼少で即位したので、当初は相国の呂不韋が国政を総攬していました。呂不韋は非常に有能な政治家でしたが、彼は古い世代の常識を重んずる人間でした。それは、『この広大な中国には、複数の国が並立しているのが当たり前だ』という常識です。魏・趙・韓・斉・燕・楚・秦の七国は、互いに激しく争い続けたとしても、国そのものは滅ぼしてはならない。その掟を破ると、他の国の合従を招いて結局失敗する。かつて斉は燕を併合しようとして、周辺国の合従を招いて撤退せざるを得なくなりました。秦もまた長平の戦いの後で趙の都邯鄲を包囲しましたが、信陵君の呼び掛けにより合従が成立してやはり空しく撤退しました。これが、当時の常識でした。だから彼の時代には、韓はどんなに弱体化していても、とどめを差すような行動を取ることは、ありませんでした。私たち韓の人間もまた、その常識の上に安心していたことは否めません。
しかし、秦王は成人したら相国を引退させ、自ら政治を執り始めました。やがて、彼の指揮する政略は、これまでの常識に逆らうものであることがはっきりしてきました。秦王は腹心の李斯と謀って、六国を秦に併合する事業を始めようとしたのです。その手始めに、六国で最も弱い韓が滅ぼされる標的となりました。『一国を完全に滅ぼすことに成功すれば、残った国もまた同じ手段を繰り返せば事業は成功する』という、李斯の目論見でした。秦王は韓を滅ぼすために、他の諸国の重臣に金をばらまいて買収しました。同時に、連年のように隣の大国の趙に兵を送って攻め立て、軍事力で隣国の介入を徹底的に牽制したのです。
周囲の掘が埋められて、韓はもはやだめでした。このとき、王族の非という者が、秦王に向けて決死の遊説を行ないました。韓を存続させるために、秦王の心を変えようとしたのです。彼は知る人ぞ知る法家思想の理論家で、生国の韓を取って『韓非』として知られていました。秦王は、彼の書いた著作にかねてから心酔していましたので、彼を感激して歓待しました。しかし、彼の説くところを容れることはしませんでした。結局、韓非は秦で投獄されて自殺に追い込まれました。
韓非の遊説も失敗した後、韓王は秦王に臣下の礼すら取って属国として生かしてほしいと哀願しました。しかし、秦王は聞き入れませんでした。年を経ずして、韓の最後の時がやってきたのです。
最後の時、もはや韓は都の鄭(てい)の近辺しか土地を持っていませんでした。王国の故地の上党(じょうとう)はすでに秦の手に落ち、北の要地の滎陽(けいよう)も取られて趙との連絡を絶たれてしまっていました。秦は、一軍を進めるだけで全てが終わりました。都は焼かれ、王は捕虜となりました。韓王国は滅び、秦の一郡に落とされました。
私の張家は、都から少し離れた所に領地を持っていました。秦は、滅ぼした王国の貴族には厳しい仕打ちを与えました。滅ぼした国の住民は、全て一様に庶民とするのが秦の政策でした。我が張家は王室に最も近い一族でしたので、それだけ秦の処分も厳しいものがありました。結局わずかな土地を残して、領地は全て没収されることとなりました。
私じしんの話をすると、王国が滅んだ当時私はすでに成人となっていました。しかし私は体が弱く、政府に仕官することもしていませんでした。家の中に籠って、書物ばかりを読んでいました。それで、私が女性のような顔つきをしていたので、人々は『張家の奥には、なんとも麗しい公主(こうしゅ。お姫さま)がいらっしゃる!』などと、冗談半分に言っていました。しかし若い私は、この周囲のぶしつけな冗談の言葉が嫌でしようがありませんでした。私は、内心深く傷ついていました。
王国が滅んで庶民に落とされ、張家のものはみな悲しみはしたものの、どうすればよいのか途方に暮れるばかりでした。旧家であって、使用人は三百人以上もいる大きな家でした。二代にわたり王国の宰相を努めた、誉れある家でした。なのに、今こうして国が滅んだときに、大人たちは悲嘆に暮れるばかりで誰も何もすることができません。情けない限りの、大人たちの姿でした。私は、その体たらくを見て、今こそこれまで自分を公主などと侮っていた大人たちを見返してやろうと、思い切ったのです。
私は、一族の者たちに向けて言い放ちました。
『このまま秦にやられて、黙っていられようか。私は、これから全てを投げ打って、韓を滅ぼした秦王に復讐する!』
普段麗しい公主さまなどと軽く見られていた私が、このような大胆な宣言をしたのに、周囲は仰天しました。馬鹿を言うな、病弱のお前に何ができる、などと年長者から諌められました。しかし、そう大人たちから言われると、ますます若い私の心は依怙地になりました。私は、さらに言いました。
『この家は二代に渡り韓の宰相を努めた、譜代の中の譜代。王国のために殉ずるのが、正しい道であるはずです。何もしようとしない方々は、黙っていてください。まがりなりにも、私はこの家の嫡男です。この家の残された財産は、全て今後私の目的のために使います。他の皆さんは、どうぞ勝手にどこにでも行ってください。』
それから後は、一族の大人たちを無視して、残された財産を全て金に代えて復讐のための資金としました。家の使用人たちには、全員暇を出しました。私のそばに残ったのは― 私の唯一の弟と、それからこの陳麗花の一家の者だけした。麗花の父の陳氏もまた、張家の使用人の一人でした。私は、陳氏にも暇を与えることを宣告しました。しかし陳氏は、私のもとを離れようとはしませんでした。彼は、私に言いました。
『それがしは、あなたの父君の代からずっと仕えております。父君の宰相樣には、ずいぶんご恩を受けました。その嫡男のあなたを、どうして見捨てることができましょうか?』
と。私は、彼に感謝しました。それで、私と、私同様に病弱な弟と、それから陳氏の家族とで、秦王を倒すための果てしない旅に出ることになりました。この麗花は当時産まれたばかりで、親たちに抱かれての旅でした。



