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十八 博浪沙の男(3)

(カテゴリ:101兵法の章

「初め私は何とか秦を倒すために、魏や斉の都に出かけて有力者と関係を作ろうとしました。秦は韓を滅ぼすと、間髪を容れずに趙を滅ぼしにかかっていました。私は有力者たちに力説しました。『秦王の行動を見ればわかるだろう。彼は全ての国を秦に併合しようとしているのだ。趙がやられたら、次はあなたたちだ。今こそ立ち上がって、諸国が連合して秦を倒さなければならない。どうしてわからないのか、、、』と。しかし、当時の私は若すぎました。思い返してみると、気ばかりがあせって相手に一方的にまくしたてるだけの遊説をしていたようです。人を説得するには、相手を聞く気にさせる仕掛けを撒いてから、おもむろに話を持っていかなければなりません。人間というものは、たとえ正しいことであっても話を聞く気がなければ決して聞こうとしないものなのですよ。話を聞かせるためには、相手が聞かざるを得なくさせるための仕掛けが必要なのです。これは覚えておいたほうがいいですよ。とにかく、私の遊説はことごとく失敗しました。贈り物の金だけ巻き上げられて、各国の政府は何一つ動こうとしませんでした。当時の私は、諸国の者たちの不明を呪いました。しかし、本当に呪うべきは、自分の力のなさだったのです。

旅に出てからしばらくして、弟は危篤になりました。これまで韓の領地で安楽に暮らしてきたのが、いつ果てるとも知れない旅に出たのです。彼は望んで私に付いてきたのですが、やはり耐えられなかったようです。彼は旅先で、みるみるうちに衰弱していきました。だがそのとき私は、別の国の政府の有力者に対して必死の遊説中でした。弟たちの逗留先に帰ることすら、長い間しませんでした。帰ってみたら、すでに弟は死んでいました。陳氏が、彼の最後の言葉を私に伝えました。『葬式などは、しないでください。その金が惜しい。できれば墓は、故国の韓に作ってほしい。ただし、秦王が滅びるまでは作らないでください。それまでは、この土地にでも埋めておいてください。秦王のいる、咸陽の方角を睨むようにして』と。私は、彼の言うとおりにしました。
韓が滅んで二年後に、趙は都を陥(おと)されました。大国の趙が事実上滅んだことによって、天下の形勢は一気に傾きました。もはや秦の真意は明らかであったのに、斉も楚も何もしようとしませんでした。両国とも、秦に恫喝されて動きを止められていたのです。滅んでいく時の国とは、哀れなものです。その頃の私は、ほとんど何をすることもできませんでした。
その後突然、秦王が殺されたという噂が流れました。咸陽の宮廷で、刺客に刺し殺された、と。諸国は大いに沸き立ちました。その頃私は楚の都にいて相変わらず実らない遊説を続けていましたが、通りという通りの住民が、外に出て踊り回って喜んでいました。私は、浮かれ騒ぐ通りを歩きながら、一方で胸のつかえが取れた爽快な気分がしたものの、心の別の片隅では、これまで自分がやろうとしてできなかった復讐を易々と他の者が成し遂げたことを、無念に思いました。暗殺。こんな簡単なことを、どうして思い付かなかったのだろうか。結局私は、これまで命を捨てて復讐に生きてこなかったのだ。私は、愚かであった、と。だがしかし、すぐ後に秦王の死は誤報であったことが分かりました。燕の放った刺客の荊軻(けいか)は咸陽の宮廷に入り込むことに成功し、謁見した秦王に隠していた剣で斬りかかった。しかし、剣を刺し通すことはできなかった。混乱が終わったときに、荊軻は死んで、秦王は生きていた。事の真相が伝わったとき、楚の都は一転して暗く沈み込みました。だが、私はその報を聞いて、誓いを新たにしていました。次は私がやるしかない。私こそが、秦王を暗殺するのだ、と。
そのうち楚はそれまで治めていた幽王が死んで、王の兄弟の間で跡目争いが勃発しました。幽王の同母弟の哀王は殺され、異母兄が位を奪いました。どうも幽王は彼の先王の子ではなくて、亡き有力者の春申君の子であったようです。もともと春申君の妾であった女を、王に献上して産まれたのが幽王だったのです。そのような事情があったために起った跡目争いでしたが、この大事な時に楚の政府は分裂して内紛に忙殺されていました。もちろん秦が後ろで糸を引いていたに違いありません。もはや、楚の滅亡も時間の問題でした。
やがて魏が、滅ぼされました。
楚にも、大軍が送られました。この辺りの事情は、あなたもよく知っているでしょう。
楚も趙も燕も完全に滅ぼされ、最後に残った斉も征服されました。
秦王は、勝利したのです。自らを『皇帝』と名乗るようになりました。韓が滅ぼされてから、九年の歳月が経っていました。
私は、秦王を暗殺するという目標を立てたものの、荊軻の一件があって以来、彼の周囲の防備はますます厳重になりました。不審の者は、近寄ることすらできません。私は様々な方策を用いましたが、駄目でした。空しく時間が過ぎていきました。
しかし、天下を統一した後、彼に一縷の隙が生まれました。
秦王は、自らをいにしえの聖王になぞらえて、その真似をしようと企むようになったのです。いにしえの夏・殷・周の聖王たちは、外に向けてはまつろわぬ夷狄(いてき)どもを平らげ、国内においては辺地をくまなく巡幸して民情を視察して回ったと言われています。天下を統一した秦王は、今の時代になってそれを復活させようと考えたのです。全国に、馳道が作られ始めました。そして秦王は、咸陽の都を出て遠くの土地まで車を出して巡幸する事業に乗り出したのです。これは、千載一遇の機会でした。
その頃もう私は、壮年となっていました。常に私に付き従ってくれた陳氏は妻を亡くし、すっかり老人となっていました。麗花は、すでに少女の年でした。私は、すでに天下が統一されてしまい、秦王という人物が欠点がありながらも確かな構想力を持ったまれな君主であることを、内心次第に認めざるをえないようになっていました。ならば、復讐をやめるか?― そう心に問うて、しかしその考えを斥けました。私は自分の青春を、全てこの復讐に費やしたのです。復讐のために弟を引きずり出して、旅先で死なせてしまいました。今、秦王を暗殺できる条件が、相手から整えてきたのです。私は、ただ一回に賭けるつもりで、策を練りました。残った資金は、全てその策に投入することに決めました。
秦王が巡幸する馳道の両脇は、厳重に警備されている。弩(いしゆみ)などを持ち出して射撃しようとしても、すぐに見つけられる。それに、秦王の乗る車は鉄で装甲が成されていて、弓矢では貫けない。どうすればよいか?必死に私が考えた結果、出した結論がこれでした。
『山陰から、物を投げて車に落す。』
馳道が丘陵地に入ったところで、一人が起伏の向こうに隠れて、もう一人が巡幸してくる車を見張る。車が予定した地点にさしかかったときに、見張りが隠れている者に合図をする。隠れている者は、予定した地点に向けて、山なりに重量物を投げる。車が壊れるほどに、重い物体だ。命中して、秦王は車ごと粉々になる。
この案を思いついてから、私はそれを実現させるためにあらゆる可能性を捜し求めました。城攻めの道具の発石車を使うことを最初考えましたが、機械が大掛かりすぎてすぐに見つけられます。ならば、どこかに力士はいないだろうか。車を破壊できるほどの重量物を、正確に投げることのできる力士は?― 私は、金を惜しみなく使って、捜し求めました。
当時私は楚の近辺の城市を転々としていましたが、この下邳の城市の父老の一人が、私に教えてくれました。
『東に行くとよい。東の海岸に、倉海君という実力者がいる。多くの壮士を知っている。彼ならば、お主の欲しがっている人物を、見つけ出せるかもしれない。』
私は、陳氏と麗花をこの下邳に残しておいて、一人で東の海岸に向いました。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章