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十九 新生する楚(2)

(カテゴリ:101兵法の章

韓信は、彼らを改めて見直した。自分などとは全く次元の違う人生を送ってきた人々であった。張良は、さらに話しを続けた。

「このままで、いけば―」
それから、彼に今後の天下のについて語って聞かせ始めた。それは、彼がこの数年間、自分を天下の道具として感じ取ってきた事象を綜合した展望であった。
「― 楚は、やがて復興するでしょう。しかも滅んだもとの王国とは全く違う、新生した楚国となるでしょう。秦に征服されて王朝と貴族たちが消えてなくなったとき、楚の住民は始めて自分たちが他国とは別の文化を持った民であることに目覚めたのです。楚とは全く違う文化を持った秦が侵入して郷里にまで支配を及ぼしたとき、楚人の誰もが自分たちの持っている背景に気付かざるをえなくなったのです。いったん目覚めたこの意識は、消えることはありません。その上、秦の近年の政策は、思わぬ効果を生み出しています― たび重なる人員の徴発が生み出した効果です。」
そこまで言われると、韓信にもまた次第に張良の展望が理解でき始めた。彼は、張良の言葉を継いで、自分で答えた。
「それは― 郷里から徴発された人民が、他の世界を知るようになったということなのですね?」
「その通り!秦の政府は、これまでに大規模な事業を休みなく打ち出してきました。行幸のための馳道の建設に始まって、匈奴の討伐、南方への殖民、長城の建設と次々に行い、今また咸陽に空前の規模の阿房宮を計画し、驪山にはすでに巨大な陵墓が建設中です。そのたびに中国全土から数十万の人員が徴発されています。法に触れた者を刑徒として集め、足りなければ郷里であぶれている子弟を差し出すように下達されます。外征や工事が行なわれる現場は郷里から何千里の向こうにあり、人員を引率する役目を命じられた郷里の代表者の数だけでもばかになりません。彼らが皆、一斉に住み慣れた世界から引き離されて異郷に置かれてしまったのです。
そのような巨大な人の流動があったとき、新しい意識が生じないわけにはいきません。中でも楚人たちは自分たちの同胞が広大な世界に広がっていることを、今になって初めて知りました。自分たちの生まれた世界が秦や趙などの北方の世界とは違うこともまた、かつてない程痛切に感じるようになりました。それが今、こうして秦の支配の下に振り回されている― なぜ?と思うのは必然です。これまでの徴発の過程で、大量の脱走者が出ていることを知っていますか?苛酷な労役、いやそれよりも見知らぬ土地の見知らぬ気候にさらされて耐えられなくなった者の多くは、狂い死にします。だが一部の者は、狂い死にする前に脱走を試みます。その脱走に成功した者の数だけでも、ぞっとするほどなのです。脱走者が出れば、それを引率していた郷里の代表者もまた、罪を受けることを恐れて姿を消します。こうして、毎年多くの人間が闇に消えていきます。さあ彼らは、どこに行ったのでしょうか?」
韓信は、張良の問いに答えた。
「裏の世界― と言うことなのですね?」
「そうです。」
「つまり、あなたの見立てによれば、楚には郷里の世界と裏の世界の両方で、復興する力が次第に貯えられている、ということに―」
「その通りです。隠れている流れは、いつか表に出ることでしょう。」
韓信は、張良の言葉を聞いて、自分の中の天下の地図が一変した気がした。彼はまだ知らないことだが、彭城で会ったあの張耳も、今は楚に潜り込もうとしていたのであった。これまで自分は郷里の世界の上っ面で生きてきたのであったが、その奥に入れば、自分が見ようとしなかった裏の世界とのつながりがあった。そしてそれは今や大きな流れとなって、やがては浮上してくるに違いない―
しかし、韓信は、そこまで思った後、その先の肝心な点に思考を進めざるをえなかった。彼は、張良に言った。
「ですが、韓簫子― いや、張子とこれから呼ぶことにします― 、楚がやがて復興したならば、そのときには秦と対立せざるをえません。」
「おそらく、そうなるでしょう。」
「対立して、どうなりますか?楚は、一度秦に惨敗したのですよ。対立して敗れたら、今度こそ楚は人民ごと滅ぼされるのではありませんか?楚は、私の郷里がある土地です。滅ぼすわけには、、、いきません。」
彼の淮陰を、滅ぼすわけにはいかない。
媼さんや阿梅のいる林家を兵火に蹂躙させることは、できない。
彼は、それを思った。思わずには、いられなかった。
しかし、彼の不安に、張良は醒めた理性で答えた。
「― ゆえに、勝つのです。勝たなければ、ならないのです。あなたは以前黄生から実地に講義を受けたでしょう。実戦で勝つには、兵の『勢』と将の『知』が必要なのです。今、楚にできつつある伏流は、いわば『勢』です。孫子にあります、
― 善く人を戦わしむるの勢い、円石を千尋の山に転ずるが如くなる者は、勢なり ―(兵勢篇)
このように、『勢』は勝つための必要条件です。ここに、将が『知』を用います。それによって、勝つことができるのです。もちろん戦いがないに越したことはありません。しかし、いったん秦と楚が対立する状況に至ったとき、『勢』を上手に用いる『知』がなければ、必ず再び秦に敗れるでしょう。そして、今度こそ楚は地上から消滅することでしょう。そうしてはならないのです。
楚兵は、もともと中国で一番勇猛です。中国の辺境にあるからこそ、秦と同じく良くも悪くも住民が蛮性を持ち続けています。その土地は広大で、韓や魏のように首都の近辺さえ押さえれば全土を制圧できるような戦略を立てようがありません。また南方に位置しているため、麦作の地域と米作の地域の両方を抱えています。麦は夏に収穫し、米は秋に収穫します。収穫期が二つあるので、兵糧の調達と端境期の兵の動員に他国よりも幅が出るのです。このように、楚には秦に決して負けないような有利な条件がいくつも揃っています。
それにも関わらず、以前の楚の政府は有利な条件を活用しきれませんでした。だから、秦に敗れたのです。かつての楚には、『勢』も『知』もありませんでした。秦に負けて当然でした。今の楚には『勢』が出来つつあります。後は、『知』だけなのです。私がこれからのあなたに期待していること、これでも分かりませんか?」
勝つか、負けるか。
いや、そんな単純な話ではない。
この楚は広大であった。楚を包む天下は、もっと広大であった。
張良が予測するように、将来楚と秦は対立するのかもしれない。
対立したならば、弱い方が負ける。万一妥協するとしても、互いの力が拮抗した後でなければ妥協の道は開けないだろう。何よりも、今秦帝国は楚という存在を認めていないのだ。もし楚で自律的な運動が始まれば、その時には衝突は必至となるだろう。そのような将来が展望できる以上、楚人の一人として最善を尽すためには、実戦の知を学んでこの世界に活用することを心掛けるべきではないか。張良はそれを韓信に望んでいるのだし、自分を送り出した淮陰の父老の意思もそこにあるのだ。
張良は、最後に韓信に、このように言った。
「孫子は、こうまで言います。

― 知兵の将は、民の司命にして、国家の安危の主なり ―(作戦篇)

実戦の法則を知る者は、人民の運命を握る者となり、国家の行く末を左右する者とまで言えるのです。なぜならば、戦いは国家の存否に関わる大事だからです。韓子、あなたは知兵の将の一人を目指しなさい。そうなれば、天下の宝ともなれましょう。」
張良はこういった後、韓信の目を見ながら、沈黙した。
言葉で答えるよりも、もはやあなたはすでに考えることを始める時点にいるのです。彼の目は、そう語っているようであった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章