今から四十年以上も、前のこと。
荀子は、もと斉で稷下の学者の重鎮として重んじられていたが、讒言をする者があって斉から逃亡せざるをえなくなった。
その彼を迎え入れたのが、当時斉のすぐ南にある蘭陵に領地を持っていた、楚の有力者の黄歇(こうあつ)であった。荀子はこの蘭陵に落ち着いて、後学の指導に当たった。
あるとき、黄歇が荀子の塾に来訪した。
「夫子。この子を、あなたの門下に預けていただけないでしょうか。」
そういって、黄歇は、紅顔の美少年を、荀子の前に紹介した。
「ほう。利発そうな少年ですな― 黄大人のお子でございますか?」
「左様です。それがしは、やがてこの蘭陵の土地を、楚王に返上するつもりでいます。代地としてそれがしが目を付けているのは、南の江東です。朝廷での根回しが進めば、変地を申し立てる予定にしています。そのあかつきには、それがしの一家も江東に移らなければなりません。ですが、こいつの母は斉人で、どうしても斉から遠すぎる南の土地には行きたくないと言うのです。ですから、母親はこの土地に置いていかざるをえません。それで、この子も母の家に留め置くことが女とその実家への配慮としてよいと思いましてね― なかなかに賢い子ですので、ぜひとも夫子の門下で学問の修行に当たらせていただけないでしょうか?」
そう言って、彼の庶子の一人を荀子に預けたのであった。それが、後の黄生であった。
黄生は、回想した。
(それから数年後、父君は蘭陵から江東に移り、春申君と号するようになった。紛争の多い土地の蘭陵を捨てて朝廷から遠い江東に移ったのは、自分自身の王国をそこで作り上げるつもりであったことは間違いない。やがて父君は食客三千人を抱えて楚王をも上回るほどの権勢を築き、その富は天下一と賞された。蘭陵にも時々戻って来るなどと言われたが、結局一回も戻ってこずに、亡くなられたな、、、)
荀子の塾に入門した黄生は、そこで恐るべき二人の秀才と知り合った。
一人は韓の王族である、韓非。もう一人は楚の上蔡からやって来た男、李斯。
二人は王族と庶民という天と地ほど違う身分の出でありながら、最大の学友にして、かつ好敵手であった。韓非は理論の構築力に優れ、李斯は具体的な提案力に優れていた。二人は荀子の弟子の最優等生として協同研究を行なっていたが、その過程で師から離れた理論を作り出していった。それは、社会を法の規則だけによって制御するという理論であった。
彼らや黄生の師である荀子は、人間の本性について、常々このように弟子たちに説いていた。
「人間の本性は、悪である。利己心に突き動かされ、他人への嫉妬をたぎらせ、種々の快楽を求めずにはおられない存在なのだ。その現実を直視しなければ、いかなる思想も空中に描いた絵に過ぎない。」
荀子は、弟子たちに常に物事の本性を見極めた上で考察を行なうべきことを勧めた。彼は、
儒家の先学の孟子や、墨家の思想家たちを厳しく批判した。荀子から見れば、彼らはありうべからざる人間像を描いている。人間の悪の面を見ず、表層だけの理想を説いている。だから、彼らの思想は社会を改革するために有効でありえない、と断言した。
その上で、荀子は彼の社会改革の展望を、このように説いた。
「しかしこのような悲惨な本性の中にある人間であるから、克己して向上しようとする心もまた生まれるのである。学を志し、修養を積もうと望む君子は、己の本性を突破した選ばれた人間である。君子は社会を指導して、本性が悪である人間たちを外から矯正する。こうして、よき社会が訪れるのである。」
黄生は、師のその言葉を聞いて、疑問を投げ掛けた。
「あえて質問します。しかし、師のおっしゃられる通り人間の本性が悪であるならば、単に君子が善導することによるだけで、人間たちが善に向うでしょうか?君子の数に比べて、君子ならざる人間の数はあまりに多すぎます。」
その弟子の問いに対して、荀子は答えた。
「君子が政府の中枢を占めて、礼と法を定めるのだ。人間を善導するためには、規則によって矯正しなければならない。善行には褒賞を与え、悪行には刑罰を与える。こうすることによって、君子でない人間ですらも善行を行なわざるを得なくなるのだ。人の上に立つ君子は、悪行に対して刑罰を下す勇気を持たなくてはならない。」
荀子は、このように法と刑罰を重視する主張に傾いていった。それは、彼の思想から必然的に導かれたものであった。
だが彼は、儒家であった。人間の本性を悪と規定する醒めた視点を持っていたものの、それでも人間を矯正すれば善に向わせることができることを信じていた。彼の礼と法は、人間を善導するための方法であった。
しかし、韓非と李斯の二人がたどり着いた地点は、荀子の主張から人間への理想を捨て去ったものであった。彼らは、師よりももっと先鋭的に、もっと現実的に理論を進めたのである。
彼らは考えた。社会を統治するのに、本当に人間の善が必要なのであろうか?人間の能力には、どんな聖人君子といえども限界がある。その上、人間が善をなそうとして行なうことが、果たして本当に善の結果をもたらすのであろうか?人の上に立つ者が、自分の気に入った下の者に恩恵を与える。上に立つ者の主観としては、善であろう。しかし、それによって恩恵を受けるのは、限られた者でしかない。上に立つ者と近しい関係にないだけで、恩恵を受けられない者が圧倒的に多数なのである。してみると、人の上に立つ君子の善などは、偽善である。そのような場当たり的な善ではない基準によって統治がなされた方が、はるかに有益ではないか?
そこで、人間を越えた法を絶対の規則として、人間に従わせるのである。
生命のない法は、誰にもえこひいきすることがない。その法の下に組み敷かれたとき、各人は等しくなる。規則が定めた褒賞を求めて力を尽くし、また規則が定めた刑罰を恐れて誠実に働くしか道がなくなるであろう。こうして法が支配する社会は、各人の能力を最も引き出すことに成功する。最強の国家とは、このようにして作られるのである。
次に、国家を主宰する君主は、どのようであるべきか?
儒家や墨家は、君主が人間の長として最高の善の存在であることを求める。
しかし、それはないものねだりである。いったい現実の君主が堯舜のような聖人である可能性が、どのぐらいあるというのか?戦国時代を通じて、そのような君主など諸国に絶えてなかったではないか?それに、たとえ現代に堯舜が再来したとしても、伝説が伝えるような理想の統治を果たして行なえるというのであろうか?能力に限りがある人間なのに?いにしえの時代より、ずっと複雑になった時代であるのに?
発想を転換しなければならない。君主は、儒家や墨家の言うように善によって統治などしなくてもよい。法によって統治するのである。
君主の発布する律令と詔は、下の者にとって善悪を越えた絶対の掟となる。法を下す君主は、人徳など必要ない。法によって下の者を有無を言わせず動かすからである。
また、法の掟が君主の能力の限界を補ってくれる。法の掟は、君主が直接知らない人間に対しても、分け隔てなく拘束力を持つからだ。
こうして、君主と家臣の具体的な人間関係に代わって、非人間的な法が下の者を動かすようになるのだ。やがてこのような状態が定着すれば、行く末には生身の人間の君主すら必要なくなるかもしれない。政府の発布する法だけによって統治される社会。これこそが、実は理想の統治形態なのである。―申不害の「術」、商鞅の「法」、慎到の「勢」の三つの要素を綜合した、法家思想の誕生であった。師の荀子の言葉にあるように、二人は「藍より出でて藍より青い」弟子たちであった。
二人からその理論を聞かされたとき、若い黄生は衝撃を受けた。彼は、目の前の秀才二人に言った。
「つまり君たちは、、、人間を、法の奴隷とするということなのか?それは、、、あまりにも、人間を軽視しすぎはしないか?あまりにも、理想がなさすぎはしないか?」
韓非は言った。
「理想?― 孔子以来、思想はよき人間が統治する理想ばかりを追い求めてきた。儒家しかり、墨家しかり。しかし、孔子の死後から二百有余年、争いはますます激しくなるばかりであった。根本が間違っていたのだ。理想の人間を追い求めていたのが、誤りであったのだ。もはや人間に期待してはならない― この二百有余年の経験から得た教訓は、それに尽きるのだ。」
李斯は言った。
「ゆえに、法なのだ。君主に絶対的な権力を与えて、そこから発布する律令と詔を絶対の掟とする。下にいる者は、どんな情実をもってしても法の規則を逃れることができないようにするのだ。こうして、人間は掟を勝手に枉げることができないことを、学ぶようになる。我らが師の言うとおり、人間の本性は悪なのだ。確かに一部の者は、善を目指せるかもしれない。しかし、人間全体が善に向うことは、これからも決してありえないだろう。だから人間以上の掟に従うことによってしか、社会は改善できないのだ!」
彼らは、師の荀子に対しても、自らの思想を語って聞かせた。師の荀子は、聞き終わって言った。
「― 見事である。」
だが師は、その後に付け加えようとした。
「しかし― 」
だが、その後の言葉を、師は言わなかった。彼は、心の中で感想を持った。
(彼らの言っていることは、おそらく真理であろう。しかし、それは人間から善を求める心を追放する道でもある。それで人間はよいのであろうか?― 私は、彼らの思想が人間の心に虚無を呼び込むことを、恐れる、、、)



