ここでとりあえず、蕭何のこれまでの経歴を、沛が秦に併合されてから後の状況と合わせて書いておこう。
秦が、楚を丸ごと平定した。
初めのうちはみんながっかりして、郷里は暗かった。しかし、すぐに秦の政府の新しい統治方法が布告された。全ての地方は秦の郡県となる。郡と県の官吏は、各郷里の父老たちから適当な若い人材を推薦せよ、、、秦は、楚の各地に封地を持っていた貴族たちをことごとく追放し、彼らから一切の権限を奪った。
しかし、広大な楚を支配するには、大量の官吏が必要であった。その官吏のうち属吏と呼ばれる中層以下の部分を、各地の郷里に開放したのであった。ただし、命官と呼ばれる上層部は中央政府がしっかり握っていたが。
楚の時代にも一応県のような機構は存在していたが、封建貴族たちの力が強すぎた。地方の官吏の職は、彼らにぶら下がる親族や舎弟たちのいい就職先であるのが往々であった。それが、郷里からの推薦により官吏を採用するように一気に整理された。その上、ゆくゆくは地元採用の官吏の中で優秀な者は中央に昇進することができるという。とにかくこれは、ある意味で革命であった。
郷里の父老たちは、協議の末に政府に官吏を推薦することにした。各地から、子弟たちが大挙して秦の属吏として採用された。
沛もまた、同様であった。蕭何は少年時代から沛の塾で、読み書き算術に礼儀作法を学んでいた。塾には曹参や夏候嬰などもいた。劉邦は彼らより年長で、以前廬綰と共に同じ塾にいたことがあった。老師も愛想をつかすほどやる気がなかったが、ともかくも彼は読み書きをここで習った。この沛の塾で机を並べて勉強した仲間で、蕭何は一等優秀であった。だから、二十歳になったときに、彼は官吏に推薦された。彼の推薦は、ほとんど父老たちの全員一致で決められた。同時期に、曹参もまた推薦された。しかし蕭何や曹参より年上の劉邦は、このときまだ推薦されなかった。父老たちから、あいつは目上に生意気だと嫌われたのである。
初めは、上からからかわれ下からこずかれ、オロオロしていた。郷里の年長者たちから、「県吏さんは、大丈夫かね、、、」などと言われる毎日であった。県令の下には、秦から派遣されて来た属吏もいた。彼らは秦の制度に当たり前ながら通暁していたうえに、戦勝国の意地悪さで地元の人間を何かにつけて馬鹿にした。むかっ腹を立てて辞めていく人間が、後を立たなかった。しかし、蕭何や曹参たち少数の者はよく耐えた。
天下を統一した秦帝国の地方行政は、とにかく人材不足だった。
行政組織が急膨張したせいで、これまで秦の武官であった人間が大量に配転して地方の文官として天下りしてきた。沛県に初めて赴任してきた県令も、もとは趙攻略で戦功を立てた武官であった。彼は、地方の実情はおろか、法規の読み方すらわからなかった。蕭何たち属吏は、彼の代わりに律令を読み事例集を検討し、県財政を出納することの全てをやらざるをえなくなった。
その日々が続くうちに、いつのまにか彼は法規を一番良く知っている官吏として、同僚から信頼されるようになっていた。上層部も、何か詔が降りてきたら、まずその運用を彼に下問するようになった。責任感のある男であった。間違ったことを言ってはならないと、必死に勉強して法文を読み下し、回答した。その働きが目に止まって、官吏の論功査定を主担業務とする主吏に任じられた。県庁で働く者たちの人事を司る業務である。上から最も信頼されていなければ、このような職務は与えられない。その主吏に、若くして据えられたのであった。
彼じしんの風貌は、沛の他の子弟たちに比べると、まことに冴えない。
薯(ナガイモ)のような顔だと、言われることがある。押し出しのよい劉邦や体力自慢の夏候嬰と並ぶと、その貧相さが目立ってしまう。しかし同じ官吏仲間の曹参は、腕っぷしも強い。
塾生時代、よくこの面々に周勃や廬綰を交えて、郊外で弓矢の練習をした。蕭何も、同じ塾の曹参や夏候嬰が参加する以上、付き合わないわけにはいかなかった。周勃が、一番上手だった。曹参は、夏候嬰と互角であった。兄貴分の劉邦は、にやにやしながら見ていた(実は彼は下手だった)。しかし蕭何は、弓の蔓を引きしぼることすらできなかった。飛んだ矢の行き先は、それこそ情けないぐらいにへろへろであった。
だが劉邦は、この頃すでにいかがわしい道に進み始めていた。
沛に王陵という親分がいた。まず彼は、この男の舎弟となった。そうして廬綰とか周勃などと共に、任侠気取りで酒場や賭場などに出入りするようになった。夏候嬰も、嬉しがって彼に付き合うことが長かった。そのため、長いこと彼は官吏に推薦されず、楚の貴族の御者であった父親の職を継いだ厩司御であった。いっぽう蕭何と曹参は、前述のように父老の推薦で県の官吏となった。
劉邦は、王陵の元から離れてさらに魏に行って、裏の世界で著名な張耳の厄介となった。その間蕭何は勤勉に働き、同僚の曹参よりも上層部の受けが良かった。曹参は裁判を担当する獄掾であったが、法の運用にやや適正さが欠けると上から評価された。しかし曹参から見れば、法の運用の範囲内であった。法を杓子定規に適用してしまえば、それこそ沛の全員が獄に繋がれるではないか、と思っていた。
そのようにして時が経っていったのであるが、ある時、泗水の亭長が欠員となった。その後任に、とつぜん劉邦が任命された。どうしてであろうか?
要は、捕られる側の事情がわかっている人間でないと、捕ることもできないというものであった。
警察業務など、郷里の人間は誰もやりたがらなかった。犯罪者とやり取りをしなければならない。亭長の配下にいる捕吏などは、それ自体がいかがわしい郷里のあぶれ者の集団であった。それで、普通の人間ではなり手がないので、この度劉邦にお鉢が回ってきたのであった。
劉邦もまた、小ずるかった。彼は、時代の変化を読み取っていた。張耳や王陵のように在野で息巻いていても、しょせん秦の行政からは逃げられないと思った。だったら、さっさと官職に付くに尽きる。そう思って、亭長の職を二つ返事で引き受けた。
劉邦が役人に任命されるというのを聞いて、蕭何は嬉しかった。
「やればできるじゃないか、劉季、、、」
郷里の豊でいじめられていた少年時代に、彼をいじめなかったのは同じ豊の劉邦だけであった。
彼は、別に年下の蕭何をかばったりすることはしなかった。ただ、いじめて楽しむ趣味がなかったので、横でそんな遊びをしていると面白くなかった。それで、蕭何がいじめられている現場に出くわすと、さっさと自分で別の遊びの話題を振って、子供たちを引き上げさせた。彼は、少年の頃から影響力があった。それで、蕭何は劉邦が来てくれることをいつも喜んだものであった。だから、彼の劉邦への見方の底には少年時代に作られた好意があった。
しかし、いざ亭長になっても、劉邦は相変わらずいい加減であった。むしろ、官吏の世界の中に入り込んで官吏をおちょくってやろうという精神を目立たせるようになった。官吏だからと言って威張ることは決してないが、仕事はまことに適当であった。後に書くが、劉邦が軽はずみで夏候嬰に行なった行為のために、蕭何と曹参は非常に苦労することとなった。
なのに、いつの間にか劉亭長は沛の城市で有名人となっていた。前回の灌嬰の一件でもあったように、彼が来れば場内の悶着がどういうわけか未然に防がれることが多かった。市井での人気は、蕭何や曹参は劉邦の比ではなかったのだ。
蕭何は、少年時代の記憶があるからでは決してないと自分に言い聞かせながらも、泗水の亭長への査定を厳しくするのを控えていた。彼には何かの役目があると、感づいていたからであった。だが、それが何かをはっきりと言うことは、彼にはできなかった。



