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四 孔巫女(こうふじょ)(1)

(カテゴリ:102伏龍の章

街道は、土を腰の高さほどに盛り上げて高くしている構造であった。

四十年近く前、楚が魯の都曲阜(きょくふ)を陥落させた戦いがあった。そのとき楚軍は彭城から北へ向う道を突貫工事で造らせ、兵革車馬の大行軍を北へ送り込んだ。かつてのことを知る沛や豊の父老たちは、その兵卒のおびただしい数、数百乗にものぼる戦車の群れ、そしてきらびやかに飾った将軍の車のことを、いまだに覚えていて語ったりする。この街道は、そのときの戦いで造られたものを、秦の政府が手直ししたものであった。
劉邦たちは、車を待たせてある街道に昇ろうとした。段差があるので、まず劉邦が道の上に昇った。それから、阿瑾を引き上げようとして彼女の手を取ろうとした。
だが、そのとき彼女を引き上げる態勢に入った劉邦の後ろから、突然声がかかった。
「― 結婚もせぬ男女が、白昼に逢い引きか!礼知らずめが、恥を知れい!」
女の声であった。劉邦は、ぎくっとして、後ろを振り向いた。しかし、そこには誰もいなかった。
「誰だ?」
劉邦は、土手の向こうに誰かいるのかもしれないと、街道の向こう側に駆け出そうとした。だがその瞬間、土手の下から飛び出してきた一塊の影があった。人の背の半分ほどであった。うずくまる物体は、やがて人間と知れた。乱れた白髪に、よれよれの麻服を着ている。しかし、その服装の様式は、一定の職業のものであった。
劉邦は、その服装を見分けて、怒鳴りつけた。
「巫(ふ。みこ)かっ!、、、一体、何者だ!」
巫女は、顔を上げた。全くの老婆であった。劉邦の顔をじっと睨み付けた。それから、かすれるような低い調子で、ひ、ひひ、ひ、と声を出した。やがて声は次第に調子を上げて、それが笑い声を意味していることが、劉邦にも知れた。老婆の声はますます高まっていき、しまいには哄笑となった。ひひひひひははは、という不気味な笑い声が、街道の中途で響いた。
巫女は、劉邦に話し掛けた。
「蛟龍の裔(すえ)よ。赤帝の子よ、、、久しぶりでござりまするな。何とまあ、立派な男になりなすった。」
蛟龍の裔。赤帝の子。この言葉に、劉邦は聞き覚えがあった。しかし、劉邦はこの老婆のことなど、全く見覚えがなかった。
「俺はお前のことなど、知らん、、、誰なんだ!俺に、何をしようとする!」
劉邦は、老婆を見据えて動かなかった。阿瑾は土手の下で、人に見つかったことを恐れて青くなって震えていた。老婆は、言葉を続けた。
「お前は知っておらずとも、それがしは知っておりまする。三十余年前、お前が母君の中に種として宿った時から、知っておりまする。それがしこそは孔子八世の孫、祖先の道統を継ぐものでござりまする。世の痴れ者どもが、祖先の道を歪め教える中で、それがしだけが祖先の正統の教えを受け継いで今に至っているのでござりまする。」
そう言った後、孔巫女は立ち上がった。
立ち上がると、何と、劉邦と同じ程の背丈であった。
この老婆は、孔子八世の孫であると自称した。
確かに、そのように名乗る巫女が、三十数年前に豊にいたのであった。孔姓であったので、人は孔巫女と呼んでいた。しかし、三十数年前、ちょうど劉邦が産まれた直後に、彼女は豊から姿を消した。それから、一切戻って来ることもなかった。その孔巫女が、今老婆となって劉邦の目の前に現れたのであった。
彼女は、成長した劉邦に言った。
「それがしがしばらく振りにこの豊に戻って来たら、劉季なる、えろう評判が悪い男がおる。もしやそいつは劉家の三男坊かと聞けば、その通りだと答えよる。その上そいつは泗水の亭長の劉邦かと尋ぬれば、相異ないわと聞き及ぶ。それで、合点がいった。沛の劉邦こそが、あの蛟龍の裔、赤帝の子であったかと。おお、何という天命― それで、それがしお前と会う機会を、ここ数日ずっと待っておった。本日などは、そこの女とお前が森におる間、こうして道の脇で待っておったのじゃわ。姜痴が、お前がここにおることをそれがしに知らせてくれた。それで、ここでお前に会うために、待つこと久しく一刻であったわ、、、」
劉邦は、このような巫女が自分が産まれる前に豊にいたことなど、聞いたことがなかった。彼は、巫女に言った。
「評判が悪くて、悪かったな!、、、で、お前はここで俺を待ち受けて、俺に何をしたいというのだ!」
「いやいや、本日は挨拶でござりまするよ、蛟龍の子よ。それにしても、大きくなられたものよ―」
巫女は、懐かしがって急に甘ったるい声に変わった。それから、君子然として彼に拱手(きょうしゅ)の礼をした。
孔巫女は、祖母が孫を可愛がるかのような調子で、劉邦に言った。
「よいか。お前には、昌運が近づいておりまする。このそれがしには、わかりまする。お前は、何一つ持ってはいない。お前は、何一つ作り出しもしない。なのに、人はお前に近づいて来る。毛一本たりとも自ら持ち上げようとしない道は、まさしく堯舜が四海を治めた道に通ずるのでござりまする。世の賢しらな輩は、この道がわからぬ。しかし、そのような人間こそ、今の天下は待ち望んでおるのでござりまするよ、、、これからは、それがしも豊に留まることになりまする。さ、ちょうど馬車も用意されていることだわ。劉季よ、まずは豊に戻りましょうぞ。」
そう言って、巫女は横に停まっている馬車に向けて歩き始めた。そうして、何食わぬ顔で座席にどっかと腰を降ろした。劉邦は、あわてて叫んだ。
「こ、、、こらっ!そこには女が乗るんだ!勝手に座るな!」
しかし、巫女は平然と答えた。
「馬車で逢い引きなど、姜痴がお前を見つけたように簡単に見つかってしまいまする。もうちっと場所を選びなされい、、、今日は、それがしが乗って帰れば一安心でござりまする。」
「勝手なことを言うな!、、、阿瑾、気にするな。上がって来い!」
劉邦は、土手の下の阿瑾の方を向いた。しかし阿瑾は、恐怖でうち震えながら、劉邦に言った。
「あっ、、、あの、私、歩いて帰ります。気にしないでください!」
そう言って、くるりと体の向きを変え、瑟を脇いっぱいに抱えて、小走りで走り去っていった。
「ま、、、待て!」
「娘の一人や二人、気にすることはないでござりませぬか。お前はだいたい、あっちこっちに女がおるのでござりましょう?」
劉邦は、振り向いて馬車の座席からほざく孔巫女に向けて、怒鳴った。
「お前は、、、何者なんだ!このまま、ただでは済まさんぞ!」
巫女は、返した。
「ですから、それがしは孔子八世の孫、祖先の正統の教えを受け継ぐ者にござりまする。それがしがこの豊に帰って来たことは、すでに劉家の太公どのにも伝えておりまする。蛟龍赤帝の子よ、たまには実家に戻って来られませい。待ちくだびれましたぞ。せっかくお前に耳寄りな話を、それがしが持って帰ってきたと言うのに、、、」
この孔巫女が自分に向けて言う、蛟龍赤帝の子という呼び方。
これは、劉邦も小さい頃から言われてきてよく聞き知っているものであった。
彼は、小さい頃よく中陽里の大人たちから、「蛟龍の子、赤帝の子」と言われていた。
幼い頃の彼は今と違って利発で可愛らしい子供だったので、「さすがは蛟龍の子だな!赤帝の子だよ!」と、近在の人々から誉められたものだ。
しかし、この言葉を自分に投げ掛けるのは家の外の大人たちだけで、両親は決してこの言葉を自分に使わなかった。その上、彼はその意味がよくわからなかった。ただ何となく、自分が天の赤い龍神の子だと信じて嬉しくなったものだ。彼が赤色を好むのも、小さい頃に繰り返し言われた「蛟龍赤帝の子」という言葉が、意識に刷り込まれていたゆえであった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章