「この世界は、陰と陽とで成り立っているのでござりまする。」
結局、劉邦は孔巫女を馬車に乗せたまま豊に戻った。孔巫女は、森から豊の城門に行くまでのわずかな時間に、馬車の座席で横の劉邦にしゃべり散らした。
「― 陰とは地、月、夜、冬、女、母、弟、貧者、奴隷でござりまする。陽とは天、日、昼、夏、男、父、兄、富者、主でござりまする。世の賢しらな輩は、陽の方が貴くて陰は賤しいと言いよる。しかし、分かっておらぬ。陰が下に降りるがゆえに、陽が上に昇っているだけであることに。陰陽揃って、初めて貴賎の区別があるのでござりまする。元はどちらも太一の一つ。陰陽が動けど、太一は何一つ増えも減りもしていないのでござりまする。何かを作り出したなどと思っている輩は、実は他の所で必ず何かを損なっておるのでござりまする。上に昇り詰めたとうぬぼれる輩は、それは他の者があえて下に降りただけなのにござりまする。生み出すものは、ただ一つ。老耼(ろうたん。老子)の言う『玄牝(げんぴん)の門』、ただ一つでござりまする。玄牝の門とは、万物の女陰のこと。女陰だけが、万物を造り出すことができるのでござりまする。人はそれを陰陽こね回しながら、遊んでいるだけにござりまする。この世界は、女陰が最も偉いのでござりまするよ、、、」
「お前の女陰など、見たくもないわ。ほら、着いたぞ。さっさと降りろ!」
「劉季、お前は降りぬのか?」
「俺はこれから沛に行くんだよ。豊に寄ってる暇はない!」
劉邦は、阿瑾との一日を邪魔された上に、この老婆をとうとう車に乗せて送ってしまったことに、腹が立っていた。腹が立って、さっきどうして老婆を馬車に乗せたまま出発したのかも、一瞬忘れていた。彼はそれを、危うく馬車を出発させる前に思い出した。
「そうだ!― おいばばあ、耳寄りな話って、何なんだよ?」
孔巫女は、劉邦に向いて言った。
「ちょっと降りてこい。教えてやろう。」
劉邦は、馬車から降りて彼女の側に寄った。彼女は、劉邦に耳打ちした。
(金の湧く泉が、もうすぐ沛にやって来るぞ―)
昔豊の邑にいて行方をくらました孔巫女が三十数年ぶりに帰ってきたのであるが、さすがに三十数年も経つと、当時のことを知っている人間の多くがこの世を去ってしまっていた。しかし、劉家の家長はまだ健在であった。孔巫女は、豊に着いた後、すでに劉家の家長の太公のところに出向いていた。劉太公は、はなはだ困惑しながらも、彼女を迎えざるをえなかった。
ところでこの劉邦の父親については、『史記』に「太公」と名が記載されている。
しかし、この「太公」という名称は、「旦那さん」「家長さん」という意味の普通名詞で、現代中国語の「老公」(ラオコン)と同じである。ゆえに、彼の真の名は伝わらない。漢帝国の初代皇帝の父君ゆえに、司馬遷があえてはばかって記載しなかったという説もある。だが、ひょっとして正式な名前などなかったのかもしれない。田舎の無教養の家族では、きっとよくあったことに違いない。この物語では『史記』他の記述に従って、劉邦の字(あざな)を「季」とみなして書いている。だが本当は、劉邦の名の「邦」も長じて自分で付けたもので、まだ豊の邑にいた頃には劉家の末弟を意味するにすぎない「劉季」の呼び名しかなかったのかもしれない。
孔巫女は、劉邦と別れた日のその後にも、劉家に赴いた。
彼女は、太公と対面していた。
「媼は、すでにお亡くなりあそばしましたか。三十余年とは、長いものでありましたわ。それがしを知る者も、太公の他数えるほどしか残っておらぬ、、、」
太公は、彼女に言った。
「、、、邑の門の脇に使っておらぬ家がありますので、そこを自由にお使いなさい。しかし、ほとんど廃屋ですぞ。それでも、、、よろしいのですか?」
「結構でござりまする。それがし、初めは沛に居ろうかと思いましたが、この豊が急に懐かしうなりましたわ。蛟龍赤帝の子が、あのように育ったとは、、、」
孔巫女の言う「蛟龍赤帝の子」という言葉に、太公は顔をしかめた。とっくに過去に置き去ったものが、蒸し返された痛みであった。
孔巫女は、もともとこの豊の出身ではない。
四十年近く前に楚が魯を滅ぼした頃、いつの間にか豊にやって来て、住み着いてしまった。
彼女は、孔子八世の孫だとその頃から自称していた。しかし、この豊で行なっていたことは、全く巫女のそれであった。婚礼の儀にやって来ては祝詞を挙げ、葬儀の場にやって来ては鎮魂の儀式を行なう。請われれば卜筮(ぼくぜい)を立てて吉凶を占い、その占いは恐ろしくよく当った。ゆえに、余所者であるにも関わらず、豊の民から畏怖される女となっていった。
彼女は、一人の不可解な男を供にしていた。孔巫女は彼のことを、姜痴と呼んでいた。孔巫女が言うには、彼女の義弟であるという。しかし、確かなことは誰も知らなかった。
姜痴は背が高く、不気味なほどに肌が白かった。彼は、言葉を何一つ発しなかった。眼球はほとんど動くこともなく、何を見て何を考えているのか、誰にも分からなかった。だが、孔巫女にはそれがわかるというのだ。
しかし、その気味悪いほどに真っ白な肌の下には、あっと驚く秘密があった。
帯の下には、人間のものをはるかに越えた長大雄渾な男根が、隠されていたのであった。誰かがものの拍子で見て、その話はたちまち豊の中に広まった。密かに、彼は孔巫女の情人であろうと噂された。
それから、しばらくの歳月が流れた。
今から、三十数年前。
豊の中陽里に属する劉家の媼が、何人目かの子を宿した。
しかし、そこには隠された内情があった。
家中の話であるが、劉家夫婦の仲はこのころすでに冷え切っていた。太公が、妻が種を宿した頃に妻と交わったことがあったであろうか?― ずいぶんあやふやな記憶ではあったが、太公じしんの記憶にはない。ないはずだと思う。
劉媼が種を宿したことが分かったとき、中陽里や隣の里の男の何人かの心中は、どきりとした。劉媼は夫との仲は冷え切っていたが、昔は豊でも有数の美人としてもてはやされていた。年増となった今でも、見ようによってはまだ美しかった。
姦通が発覚すれば、重罪であった。
昔からの郷里の掟としては、夫が不義を働いた男と共に成敗できることとなっていた。よりによって種を宿してしまっては、もはや誤魔化しようがなかった。
中陽里の秩序は、激しくゆらいだ。力の弱い家ならば、寝取られた夫を里中で脅しすかしてうやむやにすることもできたであろう。しかし、劉家は魏以来の豊の旧家であり、父老を出す家でもあった。その旧家に、このような醜聞が起きてしまった。里の者は、劉家の出方を固唾を飲んで見守った。
だが、当の劉家の太公は、小心者であった。
自分の手で妻とその相手を殺す権利があることに、恐れおののいた。そのようなことをして、今後この中陽里でどうやって生きてゆけばよいのか、想像することすらできないほどの恐怖であった。しかし、家の尊厳を汚された家長の立場を放っておくこともまた、小心翼々とした彼にはあまりに過分な重荷であった。
太公がどっちつかずで逡巡している間にも、劉媼の腹の種はどんどん大きくなっていった。彼女は、もはや覚悟したかのように、夫に対して一言も言わなかった。
中陽里の男どもが集まる、会合があった。
劉太公は、いつも通り一座の中に加わっていた。しかし彼に声をかける者はいなかった。よからぬ噂は中陽里はおろか今や豊ぜんたいに広まっていたが、姦通の宣言をするかどうかは、夫しだいであった。一座は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
そのとき、会合のあった家の玄関から、けたたましい騒ぎが聞こえた。
「やめんか、入るんじゃない!」
「離しなされ!、、今日は言祝ぎに来たのじゃわい、劉家の家長どのに会わせなされい!」
門番をしていた若衆の手を振り切って、一人の女が乱入してきた。
巫女の礼装をした、奇矯な女であった。
孔巫女に、まぎれもなかった。
一同が車座になっている間に踊り込んだ孔巫女は、劉太公の姿を見つけると、やにわに対面に正座して、深々と頭を下げた。
あっけに取られる一同を尻目に、顔を上げた孔巫女は、このようなことを劉太公に向けて切り出した。
「おめでとうござりまする。劉家の媼は、このたび蛟龍を感じて孕みなすったとか。ならば、その子は赤帝の子。劉家に神の子が生まれたとは、何というめでたきことでござりましょうや!」



