豊の邑では、鄒家の阿瑾が蕭家に嫁ぐだろうという予測が、日増しに大きくなっていた。
これを吹聴しているのは、どうやら蕭何の叔父上あたりのようである。
住民が見るに、蕭家はすでに乗り気のようだ。当事者の蕭何の意見は、別としてであるが。
後は鄒家がそれを受けるかどうかの問題であった。
「そりゃあ受けるだろう。蕭家の主吏は、こんど郡の卒史になるらしいぞ。」
「何でも、郡の卒史になるのは、咸陽に昇進する第一歩らしい。」
「咸陽か、、、そうなりゃ、高い爵位をもらえるんだろうな。もう平民ではなくなる。」
「あれは、昔から話のわかる子だった。ああいう子が秦の政治に関われば、もう少し政府もましになるだろうよ、、、とにかく、そんな男からの申し出を、鄒家が断る道理は、ない。」
このような話が、豊の住民の間でなされるようになった、昨今であった。
ところが、ある時から多少色合いの違う噂が、突然割り込み始めた。
それは、実は鄒家の意向としては、劉家と関係を結びたいと思っているというものであった。
「劉家、、、?劉家の、誰と?あそこの長男は、もう死んじまった。次男は、もう結婚している。じゃあ、四男か?」
劉家の長男の劉伯は、このときすでに嫁と子供を残して早世していた。次男の劉仲は、取り立てて言うような人物ではない。後に北辺の地の代王に封ぜられたが、国を捨てて逃げ帰ってしまった。それで、王位を剥奪された。四男の劉交は、劉太公が後妻との間にもうけた息子である。家の仕事にも真面目で、その上勉学を好む青年であった。彼は、今や劉邦よりずっと父親から可愛がられていた。だが、嫁を貰うにはまだ少し若かった。
「いや、四男じゃなくて、三男だと、、、」
「そりゃお前、聞き間違いだろ!」
「― たぶん、そうだろうな。俺も、聞き間違いだと思う。」
噂の真相は、このようであった。
鄒家の家長は、もとより年頃となった娘をどこに嫁がせるかを、心砕く時期となっていた。近年豊で評判の高い蕭家の何も、候補として家長の心中に上がっていたのは、事実であった。
ところが、最近のとある日、彼が豊を出て沛に赴いた時であった。
彼は、沛の古顔たちと、久しぶりに親交を温めた。彼も若い頃は、結構な遊び人として沛の城市で若気の至りのいろいろを振りまいていたものだ。しかし、結婚して子ができてからは、豊で真面目に家業に精を出すようになった。
年配者が顔を合わせると、話題は決まって子どもたちのことが中心となる。朱家の長男の出来はどうだの、呉家では早くも孫が生まれただのと、ひとしきりの仲間の話題が出たあとで、鄒家の家長に話題が回ってきた。
「― お前のところは、どうだ?」
「いやいや、息子たちはもう結婚済みだ、私のところは、終わっている。」
「― 娘が一人、いるんじゃなかったっけ?確か年頃だろう?」
「あれか!、、、親が娘のためにいちいち気遣うなどは、家を持つ者としてよろしくない。あまり考えたくないね。」
「そうもいかんぞ。娘が嫁ぐ先は、外戚だからな。つまらない家にくれてやるのは、損というものだ― 内心、考えてるんだろう?本当は!」
このように昔の仲間から突っ込まれて、鄒家の家長は、実は心を悩ましている問題について、自分の腹の内を明かした。
「― 豊に、蕭家がある。そこの息子の蕭何が、大変評判がよい。あれはどうかなと、思っている。」
蕭何と聞いた仲間は、あああいつかと、すぐに思い当たった。沛では、すでに皆が知っている。
だが座にいた者たちの反応は、二つに割れた。それはよいと納得する者が、半分であった。しかしもう半分は、態度を留保した。その態度を留保した者の一人が、言った。
「― あれは、本当に郷里のためになる男に、なってくれるのかねえ?」
鄒家の家長は、聞き返した。
「郷里のため、とは?」
「― そりゃあ、あいつは県庁でいちばん仕事ができる。もうすぐ郡史になる。その上、中央に進出する目があるらしい。でも、まだあいつの真価がわからん。郷里になにかあったときに守ってくれるのが、真の沛の男というものだ。」
もう一人が言った。
「そうだな。官吏の仕事だけでは、器の大きさはわからん。意外と、今は運に乗っているだけかもしれないぞ。」
彼らは、みなすでに沛の城市や県内の郷里の上役となっていた。だから、郷里と県庁との関係について、いちばん敏感であった。
鄒家の家長は、意外な意見を昔の仲間から聞かされて、尋ねた。
「、、、そんなものなのか、ねえ?」
「そんなものなのだよ。まあ、お前の豊では、蕭何は結婚前の男ではいちばんではないかな。少なくとも、悪い男ではない。」
そう一人が言ったとき、別の一人が口を挟んだ。
「― 豊出身の未婚者ならば、もっと上の奴がいるだろうが、、、」
そう言った男は、憮然としていた。なんで見落とすのかと言いたげであった。
「もっと、上?、、、あ、そうか!泗水の亭長の劉邦も、豊の人間だったな!」
仲間たちが劉邦の名前を出したとき、鄒家の家長は仰天してしまった。彼を婿の候補になど、考えたこともなかったからであった。しかし、仲間たちの劉邦に関する話を聞いて、彼はさらに驚いた。豊での悪評とは打って代わって、沛や他の郷里での彼の評判はすこぶる良好なのである。
「あやつはいい加減だが、気性の荒い年若たちをなだめることができるのは、あやつだけだ。」
「あいつには、不思議と人が集まってくる。あいつは、沛に必要だよ。」
酒を含んで、ここまで持ち上げる男もいた。
「― もし郷里に何かあったら、沛が祭り上げるのは、ひょっとしてあいつかもしれんな。」
「それは言いすぎだろう、、、あやつには、取り立てて能がない。」
「能なんてあってもなくても、よいのだよ。要は、人の心をつかむことができるか、だ。見たところ、劉邦だけが沛で人の心をつかむことができている。蕭何や曹参は、能はあってもその点で劉邦に及ばない、、、」
このような話を、鄒家の家長はたっぷり聞かされてきたのであった。本音の印象だけに、彼は聞き流すわけにはいかなかった。
(どうも、豊での評判はあてにならないらしい、、、もう少し、考えてみるか。)
しかしまさか、両家を天秤にかけて接触するわけには、いかない。女の家と男の家とが話を交すときは、結婚を申し込む時でなければならないのだ。鄒家の家長は、それで判断に揺れていた。
あるとき、鄒家の属する里内で会合があった。そこで、話のはずみに鄒家の阿瑾について話が出た。家長どのは、どうお考えか?と、者どもが聞いた。座の人々は、もし彼が意向を打ち出すとするならば、当然蕭家の息子であろうと期待していた。ところが、鄒家の家長の答えは、違うものであった。
「もとより、まだ決めていない。決めていないが、、、蕭家の息子か、劉家の、、、三男などはこの豊では悪くない男かも、しれんな。」
家長は、まだ劉邦への認識を変えたわけではなかった。決めかねて、思案していただけであった。だが意外にも、劉家の三男などが家長の口から出たことは、一座にとって衝撃であった。噂は、重大な部分だけが広まった。鄒家の家長の意向は、あの劉邦であると。
その噂を伝え聞いた鄒家の娘の阿瑾は、家の中にいて心が晴れるような心地がした。



