阿瑾は、今十五であった。
親から、そろそろ嫁ぎ先を申し渡されるべき年頃であった。
親が決めた嫁ぎ先に従い、夫の家に入っては家の言い付けに従順に従って、決して逆らうことをしない。それが、婦徳と呼ばれているものであった。
阿瑾も、最近豊で噂されるようになった蕭家との話を、すでに色々なところから耳に挟んでいた。いやが応にも、耳に入らされるのであった。
家の嫗(ばば)は、最近の彼女の周りでの話を聞いて気を使ったかのように、ある時彼女にこのようなことを言って聞かせた。
「― 嫁ぎ先の太太(おくさま)になれるほど、女にとって幸せなものはないよ。妾や婢(はしため)なんかより、ずっといい。」
これが、現実であった。
それが、突然父君が劉邦を自分の嫁ぎ先として考えている、、、という話が伝わった。彼女にとっては、まさかの話であった。
「劉兄と、、、?うそでしょう。父君が、まさか?」
しかし、その話を聞いた夜、彼女は眠れなかった。こんなにも眠れず、しかも疲れもしない夜は、初めてであった。
今から三年ほど、前。
劉邦は、半年ほど前に泗水の亭長になっていた。しかし亭長ごときの身分でありながら、早くも彼は沛の県庁に大きな顔をして出入りするようになっていた。特に、最近県吏に採用された夏候嬰に会って冷やかしに来ること、しばしばであった。周囲の皆は苦々しく思っていたが、夏候嬰は平気で劉邦が来ると仕事を放り出して談笑した。時にはそのまま武おばさんや王媼(ばあ)さんの酒店に、行ってしまうことすらあった。彼にとっては官吏の立場よりも、劉邦との仲の方が優先事項であった。
ある日、劉邦は亭長の仕事も放ったらかして、また沛の城市にやって来た。
横には、廬綰と周勃がいた。
市場で、樊噲と灌嬰を拾った。
県庁には、夏候嬰がいた。構わず、彼は抜け出した。まだ日の高いうちから、一行は王媼さんの店に行こうとしていた。
しかし、店のある通りの辻に、劉邦はうずくまって下を向いている小娘を見た。よく見ると、見覚えのある顔であった。
「おまえは、、、鄒家の娘じゃないか?」
鄒家の阿瑾に、間違いなかった。
「なんで、沛の城市なんかにいるんだ?」
阿瑾は、うつむいて何も答えなかった。劉邦は知っている顔であったが、この沛には始めて来た彼女であった。それに、劉邦の後ろに付いているいかつい男たちが、彼女には恐ろしすぎた。ようやく女の年になり始めた小娘の服はひどく汚れて、足は土だらけであった。
(― 抜け出して、来たんだな、、、)
劉邦は、勘づいた。
小さいながら、ませた娘であった。豊の田舎で父母や親類と顔を付き合わせる毎日が、ようやく嫌になってきた。いったん嫌になり始めたら、郷里が日増しに憎くなってきた。それで、歩いて城門から逃げ出した。もっと大きな沛の城市を、見てみたかった。県庁には、豊からも蕭何と劉邦が勤めていることを聞いていた(彼女は、劉邦が県庁勤めではないことは、知らなかった)。それで東に歩き詰めて、ようやく沛の城市に入ったのは今日の午前中であった。だが彼女は市場に迷い込んで、そのあまりにも殺伐とした雰囲気に、恐怖して逃げ出した。それで、すっかり疲れてしまって、街角でへたり込んでいたところなのであった。
劉邦は、彼女の姿を見て言った。
「困った子だな。たぶん郷里では大騒ぎになっているぞ。つくづく、親を泣かせる奴だ、、、」
(俺も、そうだけれどな、、、)
劉邦は、内心そう思って、頭をかいた。こういった子が何を考えているのか、劉邦にはよくわかるのであった。
「一人で知らない城市に迷い込んで、誘拐でもされたら、どうするつもりだったんだ?世間知らずの子供が、無茶なことをするんじゃないぞ!」
(このまま帰したら、親に思いっきり折檻されるだろうな、、、何とかよい方法は、ないものか、、、あ、そうか。俺は今、亭長だったんだ。)
まずは、疲れている彼女を酒店の中に連れて入った。それで、媼さんに頼んで寝かせてやった。娘は、莚をかけられて倒れるように眠った。夜中に、空腹で目が覚めた。横にはまだ劉邦がいて、酒をしこたま飲んで眠っていた。
朝になると、あの昨日の大男の樊噲がやって来た。彼は、大きな器を抱えて来て、黙ってそれを床に置いた。中には、狗肉の羹(あつもの)が入っていた。王媼さんがよそって、娘に与えてやった。娘は、むさぼるように食べた。劉邦がにこりと微笑むと、彼女もにこりと微笑んだ。
夏候嬰が、店にやって来た。彼は言った。
「厩司御に、話を付けてきた、、、久しぶりに、馬を操ってみるか!」
そう言って、指を鳴らした。
県庁から、公用馬車を持ち出した。亭長が使うという、名目であった。夏候嬰が馬車を操って、乗っているのは劉邦と、阿瑾であった。劉邦は、泗水に沿った街道をずんずん走らせた。川のほとりで、馬車を停めて降りた。
泗水は、日の光できらめいてた。劉邦は、娘に川の流れを指差して、言った。
「この川を渡れば、向こうは斉だ。斉は、楚よりももっと人間が多い。川を下れば、彭城だ。彭城は、沛よりももっと大きな城市だ。」
阿瑾は、言った。
「行ってみたい!そこにも、行ってみたい!」
劉邦は、返した。
「― そのうち、連れて行ってやるさ。けれども、今日はお預けだ。今日が終わったら、お前は豊に帰らなくてはならない。父君に、よく謝るんだぞ、、、!」
その日は、夏候嬰の操る馬車に乗って、県内の各地を乗り回した。夏候嬰の操る馬車は、愉快なほどに心地よかった。
遠乗りを終えた夕刻、劉邦は何食わぬ顔をして県庁にやって来た。そうして、県吏に言った。
「亭長の劉邦だ。盗賊が娘をさらって連行しようとしている所に、出くわした。捕まえようとしたが、惜しくも捕り逃がした。幸い娘は無事取り返すことができたので、引き渡す。」
劉邦が鄒瑾を保護して連れて来たと聞いて、同郷の蕭何があわててやって来た。蕭何は、安堵して言った。
「ああ、よかった、よかった、、、豊では大騒ぎだよ。劉亭長、よく取り戻してくれた!」
この日までのことは、阿瑾が盗賊に捕まって引き回されていたこととされた。
何も知らずに県庁の一室で色々と娘を気遣う蕭何の前で、彼女は面白くてきゃっきゃっと笑った。横に座っていた劉邦が、彼女の足をつねった。
(お前は、豊でさらわれて今までずっと恐ろしい思いをしていたんだ、、、笑うんじゃない!)
このような小さな騒動が、あった。
しかしその少し後に、今度は劉邦が元となって、もう少し大きな騒動が起った。



