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七 風波烈々(1)

(カテゴリ:102伏龍の章

阿瑾が無事帰って来た次の日、蕭何は、忙しい身であるのに豊にまで阿瑾を送ってやった。

馬車の上で阿瑾は、蕭何の方を向いて言った。
「蕭兄、久しぶりだね!」
彼は言った。
「あ、、、覚えていて、くれたのか。」
「もちろん!」
彼女は、元気に答えた。蕭何は、きらきらする彼女の顔を見ながら、思った。
(あの子が、こんなに変わってしまったのか、、?)
蕭何が県の官吏となって、まだ年月を経ない頃のことであった。
非番日で郷里に帰った日に、決まって野良の同じ場所で草花をじっと見ている子がいた。
あるとき蕭何は興味をもって、彼女の横に座った。そして、彼女が見ている黄色くて小さな花の名前を教えてあげた。
「― これは、荼(と。ニガナ)というんだ。」
「― じゃあ、これは?」
娘は、別の草を指した。
「これは、芣苢(ふい。オオバコ)だ。『詩経』にも出てくる、、、あ、そんなの知らないか。」
彼女は、『詩経』などもちろん分からなかった。だが、蕭兄の言葉じたいが楽しかった。それで、にこにこしながら熱心に聞いていた。好奇心の強い子供であった。
「こっちは、、、蓬(ほう。ヨモギ)。近寄ってごらん、いい香りがするだろう?」
「― 変なにおいがする、、、」
蕭何は、頭をかいて笑った。
名前など覚えたと思ったら次の日には忘れてしまっていたが、とにかくこんな風にして小さい頃の阿瑾の相手を何度もしてあげたものだ。後で、叔父上から「なんだ、もう嫁の相手にするつもりか?」などと、冷やかされた。
(二年、、、?三年、、、?たったそれだけで、人はこんなに成長するのか?何とすごいんだろう!)
阿瑾は、いつの間にか座席で眠っていた。

夏候嬰が、二、三日県庁に出てこないことがあった。
ようやく顔を出したとき、彼は顔の半分に布をぐるぐる巻きにしていた。
「どうしたんだ?」
曹参が、聞いた。
「茅(ちがや)に入り込んで、顔を切ってしまった。なに、大したことはないさ。」
夏候嬰は、笑って答えた。しかし、茅で切ったようには見えなかった。やがて彼が布を取ったとき、目のそばに大きな切り傷が残っていた。

獄掾の曹参が、密告を受け取った。

亭長の劉邦は、某日に属吏の夏候嬰を剣で斬り付けました。厳正なご処分を、何とぞお願いいたします。

(参ったな、、、亭長が傷害を起こすと、重罪だ。五体満足では、いられないぞ。)
官吏が剣をもって傷害事件を起こすのは、重罪であった。
当然のことであるが、官吏には権力を濫用させないために暴力行為に対しては重い罰則が定められていた。ましてや官吏のはしくれの夏候嬰を傷害したというのである。これは行政秩序を紊乱する罪でもある。もしこの密告が真実ならば、劉亭長の罪は重大である。高級な官僚で秦から高い爵位をもらっていれば、爵位の降格で済むかもしれない。しかし、最低に近い官位の亭長では、それも期待できなかった。
(顔に黥(いれずみ)されて、咸陽送り三年かな?、、、いや、もっと重いな、、、)
曹参は、決めた。
訴えを、受理しない方向でいこう。
彼は、廬綰と周勃を呼びつけて、こっそり事情を聴いた。
たわいもないことであった。
泗水の亭に、夏候嬰たちが遊びに行っていた。劉邦は、彼らを前にして最近ここであった盗賊の捕物を、身振りを加えて語って聞かせた。
「奴ら、川を渡って逃げようとしやがった。そこで俺が捕吏どもに言った、『行け!泳いででも、捕まえろ!』」
そう言って、腰の剣をその時と同じくしゃっと抜いてかざした。
周勃が、笑って言った。
「捕るのは手下にやらせて、亭長は高みの見物ってわけですかい?」
劉邦は、上機嫌で返した。
「当たり前よ。上の者が手を下してどうする。俺は、号令を下すだけだ。こんなふうにな。『今だ、包み込め!』、、、」
そう言って、抜いた剣を振り下ろした。
ところが、勢いが付き過ぎた。
前に座っていた夏候嬰の頬を、ざっくりとかすめてしまったのであった。
「あっ、、、!」
劉邦は、あわてて謝った。夏候嬰の頬から、血が吹き出していた。
だが、夏候嬰は、すでに官吏であった。まだ蕭何や曹参ほど律令を知らないが、官吏の自分を傷つけるとどのような罪になるのかは、分かっていた。
「そこまで!そこまで!、、、参ったよ、自分で斬っちまった、、、亭長、布持ってきて、くれませんかね?」
こうして、夏候嬰は劉邦をかばって一座を収めたのであった。

曹参は、形だけ夏候嬰と劉邦を訊問した。二人とも、事実はないと証言した。それで、事実が確認できないと判断して、訴えを不受理とした。不受理としたのは、訴えた側に罪が及ぶのを避けるためであった。秦法では、犯罪の訴えが事実無根であると証明されたならば、誣告(ぶこく)の罪は訴えた罪と同罪が課せられることとなっていた。それは、必ず禍根を残す。そのために、不受理としてしまったのであった。

これで事は収まったかに、見えた。しかし、そうではなかった。
一月近く経った後、曹参は当時の県令に呼びつけられた。
県令は、言った。
「県吏の夏候嬰を、亭長の劉邦が傷害したという訴えがあった。事実を調査して、裁判を行なえ。」
末端でうやむやに済まされた密告者は、今度は県令に直接訴えたのであった。この県令は、地方の事情などに興味はない。咸陽が、そして咸陽の目である監御史が恐ろしいのである。訴えがあったら杓子定規に受理するのが、県令のやり方であった。
ついに、上から指示されてしまった。このままでは、劉邦のみならず夏候嬰も偽証の罪を受けることとなる。曹参は、蕭何に相談した。蕭何は、県令のもとに行って、彼を説得しようとした。
「被害者が傷つけられたという証言もないようですし、このような些細な問題をいちいち受理する必要は、ないものと考えますが、、、」
「些細?」
県令は、蕭何に対して目を剥いた。
「県の役人に刃が向けられたと、言うのだぞ!これは、重大な秩序への挑戦だ!法がないがしろにされ、秩序がゆるめられれば、国家は足元から崩れるのだっ!国家の秩序を乱す罪は、何一つ見逃してはならない!これは、国家の威信に関わることなのだっ!」
だが、彼が今頭に思い浮かべている恐れは、監御史に自分の職務怠慢が指弾されること、それだけであった。裏で賄賂を取る貪官汚吏も困ったものだが、彼のような上ばかりを見て自分の判断を持たない規則の亡者もまた、下にとっては甚だしい害であった。そして、秦帝国の高級官吏の大半は、そのどちらかの種族であったのである。
劉邦と夏候嬰は、捕えられることとなった。蕭何も曹参も、それを防ぐことができなかった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章