劉邦と夏候嬰は、並んで枷をはめられて県庁の獄に連行されていった。劉邦は、横の夏候嬰に声をかけた。
「― すまんな。お前まで巻き込んでしまって。」
夏候嬰は、笑って答えた。
「大丈夫ですよ。絶対に、口を割りませんよ。」
獄につながれながら、劉邦は考えた。
(俺を快く思わない奴が、沛にいる― そいつが、密告した。長丁場の戦いになるな。だが勝つのは、この俺だ。)
逃げることも、一瞬考えた。しかし、断固として否定した。今、闇に逃げれば、自分は無のままで漂うことになる。それでは、闇を泳ぐ術がなかった。ここは、こらえどころだと、彼の直感が教えた。
(これを乗り切れば、俺は沛で勝つことができるだろう。のるか、そるかだ。まずこれからが、俺の第一の勝負よ。)
蕭何は、郷里の豊に帰っていた。劉家を訪問して、まだ審査中なので平静でいるようにと、太公に言った。太公は、さすがに体面を考えて動揺していた。しかし、豊の者たちの世論は、「それ見たことか!劉季め、やっぱり法に触れやがった!」といった嘲笑が圧倒的主流であった。
蕭何が劉家から出ると、一人の子供が彼の前に駆け出してきた。阿瑾であった。阿瑾は、蕭何を激しくなじった。
「劉兄が、何をしたっていうの?何かしたっていうの?」
蕭何は、彼女に言った。
「まだ、何かしたとは分かっていない。法があるから、訊問しなければならないんだ。まだ分からないよ、、、」
「法があるから、劉兄を獄に入れたの?それで拷問するんだね!ひどい!どうして劉兄を救ってやれないのよ!」
彼女は、しまいに泣き出した。
(この娘は、すっかり変わったんだな、、、)
蕭何は、彼女が二、三年前とは全然違う性格に成長していたのを知った。好奇心の強い子は、いつしか情の激しい娘に成長していた。蕭何は、彼女に対して言った。
「― すまない。なんとか、するから。だから、泣かないでおくれ。」
ついに、訊問を始める日となった。曹参が、訊問部屋に入れられた劉邦のところにやって来た。劉邦は、彼をじろりと睨んだ。しかし、互いに何一つ言葉を交わさなかった。
曹参は、一人の男を連れていた。曹参は、彼に「では、後は任せたぞ」と言って、部屋から退席してしまった。
男は、獄吏の任敖であった。曹参の配下である。
「任敖、、、そういやお前も、官吏だったな。獄吏だったのか。」
「昔は昔、今は今。それがし、曹獄掾から貴公の訊問係を仰せつかりました。規定どおり、笞(むち)をもって訊問を行ないます、、、」
任敖は、そう言って笞を構えた。それから、横を向いて壁を笞で殴り付けた。
「― 自白せよ!」
劉邦は、一瞬ぽかんとした。
任敖は、劉邦の横に歩み寄って、耳打ちした。
(曹獄掾は、あまりに法にこだわり過ぎる、人を陥れるような今回の告訴に憤っています。それで、それがし曹獄掾の意向により、この件の訊問を担当することとなりました。『名演技』は、それがしの得意とする技です。あなたも外によーく聞こえるように、せいぜい痛がってくださいよ、、、)
こういって、片目をしばたかせた。劉邦は、にやりと笑った。
(やるじゃないか、お前ら、、、)
「いくぞ、自白せよ!」
「ひいいっ!やっていない!」
「もう一度、聞く!自白せよ!」
「や、、、やっていない!本当だ!」
大抵の日は、この「名演技」で切り抜けることができた。しかし、意地の悪い県の上層部は、時々自分の息のかかった官吏を訊問に同席させた。その時は、任敖も肌を打たなければならなかった。そういった日には、夏候嬰が自ら願い出て、笞で打たれた。手加減する術を心得ている任敖であったが、それでも応えた。しかし、夏候嬰は決して口を割らなかった。
劉邦の獄に、蕭何もまたやって来た。劉邦は言った。
「― 何の用だ、、、」
「すまない。県令には訴えを受理しないように言ったのだが、聞き入れられなかった。」
「― まあ、お前では無理だろうな。お前には、まだ人を説得できる力はない。」
「― これは、私の独り言として、聞くがよい。」
「なんだ?」
「、、、役所といえども、処理できる案件の量には限りがある。全ての案件を、抱え続けるわけにはいかない。」
「?」
蕭何は、劉邦に背を向けたまま、独り言を続けた。
「告訴された者を訊問する年限は、内規では一年。一年訊問して自白を取れなければ、その告訴は誣告とみなして、処理する。」
劉邦は、にやりとした。
「なるほど。一年耐えろ、というのか。」
「たぶん曹参も、いろいろやっているのだろう。私には何も言わないが― 私は、県庁の人事を動かすことができる。曹獄掾以下、獄吏の人員は動かさずに留め置く。怪しい官吏を、獄の担当に付けさせはしない。泗水の亭長の職は、空けたままにしておく。」
そう言って、蕭何は歩き去った。
しかし劉邦は、獄に入りながらかえって沛での声望を高めることに成功した。
樊噲、廬綰、周勃などが大いに動いて、市場や農村の若衆たちを劉邦の側に引き込んでいった。城市の世論は、劉邦への同情に傾いていった。ここぞと言うときに、劉邦は信頼できる手下が骨身を削ってくれた。
蕭何も曹参も、裏から何くれとなく支援してくれた。もっとも、二人は決して劉邦の手下となったつもりなどないのであるが。
当時沛で一番大きな顔は、王陵であった。
ある日、彼は子分の者たちに、世間話のように言った。
「― 無実の者を密告して、獄に入れるようなことは誉められたものではないな。」
それを聞いた子分の一人が、心中で跳び上がった。
(そ、、、そりゃあないぜ!あんたが指示したんだろうが!)
王陵は、この事件に完全に頬かむりすることに決めた。もはや、沛での勢力は取り返しのつかないところまで劉邦に奪われていた。トカゲの尻尾切りが、行なわれた。
ついに、訊問が始まってから一年が経った。逮捕された時から数えると、一年以上の年月が流れていた。劉邦と夏候嬰は、晴れて釈放された。二人は、互いに言った。
「― 長かったな。」
「― 人生、時にはこんなこともありますよ。」
そう言って、二人は哄笑した。
一方、県庁の中。
「まずは、厄介な一件も終わったようだな。これで、後くされもない。」
県令は、にこにこして蕭何と曹参に言った。彼は、このたび咸陽への昇任が決まったのであった。もう、こんな田舎の事件に関わることも、ないのだ。蕭何と曹参は、白い目で喜びを隠し切れない県令を見た。しかし、彼は部下の視線など全然目に入らなかった。
誣告したとされた者は捕えられ、市場で鼻をそがれて咸陽に送られることとなった。今も、戻ってこない。
王陵は、何食わぬ顔をして釈放された劉邦の元に赴いて、対面した。劉邦は、にこにこしながら昔の義兄との面会を喜んだ。その後、王陵は自分の郷里に隠棲してしまった。劉邦は、沛の裏の世界の代表となったのである。王陵は、負けを認めて自ら劉邦に屈した。劉邦の蜂起後、王陵は彼の忠実な部下となる。
「どうやら、帰ってこれましたよ。父上。」
豊に戻った劉邦は、実家で太公と面会していた。劉邦は、釈放されてからわざと一ヶ月も経ってから、実家に帰ってきた。太公は、よかったよかったと相槌を打った。実はついこないだまで、不肖の息子には匙を投げた態度を取っていたのであった。
家の周りに詰め掛けた住民たちの中に、阿瑾も混じっていた。彼女は、いつしか涙を流していた。
(よかった、、、劉兄、よかったよ、、、、)
彼女は、蕭何の隠れた努力など、知らない。知った所で何とも思いはしない。彼女にとって大事な人は、今はもう劉兄であった。



