こうして泗水の亭長として戻ってきた劉邦は、やはり相変わらずの劉邦であった。
仕事は適当で、公私混同ははなはだしく、しかも県庁に大きな顔をして出入りするのも、少しも変わらなかった。
(困った人だ、、、)
蕭何は、劉邦の自在ぶりに苦笑した。彼は、今回の件で劉邦の人望の深さをよく知った。だから、この人物の奥まではとうてい分かりそうにないが、とにかく好意的に捨て置く立場を取り続けるのがよいだろうと、判断した。
(このぐらいなら、やってもよいさ。害にはならない。)
彼は、劉邦の自在流に、結構な小気味よさを感じていた。世の中のつまらない大人たちよりは、ずっと評価すべきものを見て取ったのであった。蕭何は、劉邦が子供の頃のままに大きくなっているのを今さらながらに発見して、それが内心嬉しかったのだ。
劉邦は、狡猾でかつ純粋な人間に成長していた。狡猾な知恵を持っているのが、大人になった証拠であった。そしてつまらない型にはめて人間を見ないのが、子供のままである証拠であった。これが、彼が人を引き寄せて上手に利用する秘訣であった。劉邦は、人の心の盗賊を稼業としているのであった。
そして鄒家の阿瑾の心もまた、盗賊に盗まれていたのであった。
彼女は、ますます美しくなってきた。
劉邦も、子ども扱いしないようになった。それが、彼女を一層喜ばせた。
知らない間に、二人で薛や彭城にも行っていた。
彼の父も、そして蕭何も、知らないことであった。
「あやつ、もう子供がおるな。」
孔巫女は、豊の陋屋で姜痴と共にいた。
「親にも隠しておる。蛟龍の子め、これまでにずいぶん遊んだようだわい。子がおるのも、不思議ではないわな。」
彼女は、兔の羹(あつもの)を作っていた。兔は、姜痴が捕まえてきたものであった。
「これまで巡ってきた諸国の城市の中でも、沛の城市はいちばん気が治まっておるわい。蛟龍の子の人徳だわな。祖龍がここまで天下の気を乱しておる中で、よう調和させておるわ。あれは、買いだわい。」
孔巫女は、岩塩の粒を煮立ってきた羹に入れた。最近の彼女は、もはや昔のようにこの豊で卜占を立てたりはしない。ふらりと沛の城市に赴いたり、あるいはどこに行っているのかわからないこともあった。
「天地のしくみとはな―」
孔巫女は、羹をかき回しながら、姜痴に語り始めた。
「陰と、陽の循環なのだわい。陽とは、上に昇って行くもの。陰とは、下に降りていくもの。必ず誰かが上に昇れば、必ず誰かが下に降りる。この道から外れることは、決してできぬ。ところが―」
彼女は、羹に一すくいの粟(あわ)を混ぜた。劉家の太公から、分けてもらったものであった。
「誰も好きこのんで、下に下がる奴などおらぬ。皆が皆、上に昇っていきたいと思いよる。当たり前だわい。それで、食い合い、潰し合うのよ。己が陽となるために、他の者を陰に蹴落とす。ところが、蹴落とされる者は牙を向いて、昇った者をまたも陰に引きずり下ろす。これが、陰陽の乱れというものだわい。ましてや天下の一番上に立っている者が強すぎると、下の者は怨みが増すだけだわい。あの祖龍は、それがわかっておらぬ。」
羹がほぼ整ってきたところで、彼女は陋屋の前で栽培している韮(にら)を加えた。つんと来る香りが、わびしい部屋中に広がった。
「勝っていることは、それ自体が咎(とが)あることを知らねばならぬ。ゆえに勝ち続ける者は、いにしえの聖人による討伐の対象なのだわい。夏の桀王も、殷の紂王も、己の才があまりにも他人より優れ、何をやらせても他の者よりも勝っておった。それで、周りの者どもの立場をなくしてしもうた。そのような者は、人の上に立ってはならぬ。ゆえに、聖人は討伐したのだわい。あの祖龍は、桀紂の咎から何も学んでおらぬ。智者ではない。」
煮上がった羹は、粟がほどよく膨れて美味そうだった。彼女は、火の上から素焼きの鼎(かなえ)を外した。
「ならば、聖人の道とは、どのようなものか?― 智恵を持ちながら、何もしないのだわい。智恵を隠して一個の痴愚となるのが、人の上に立つ道。皆が皆、上に上に昇ろうとしよる。それを、全て受け止めてやるのだわい。皆が皆を、上に昇ったとうぬぼれさせること。そのくせ、そいつらは皆、下に踏みつけられている。これが、至上の道。真の聖人の智恵。これこそが、堯舜の道というものだわい。」
二人は、羹をよそって、しばし沈黙しながら食事をした。外は、雨だった。雨が屋内に漏れていたが、二人は全く気にも留めなかった。
「沛で、面白い話を聞いたわい。」
食事を終えた後、孔巫女は再び姜痴に向けて、話し始めた。
「蛟龍の子は、左の股に七十二の黒子(ほくろ)があるそうだの。七十二は、九と八。九は陽の数、八は陰の数だわい。つまり、七十二は陰陽を統べる、君主の数。どこで数の意味を聞いてきたのか知らぬが、己に七十二の黒子があるのを吉祥と思うて吹聴しておるとか。たわいもない奴だわい。」
劉邦が、魏にいた頃であった。その夜一緒に寝た女が、夜寝を終えた朝に、彼の股にずいぶん黒子が多いのに気付いた。面白がって、数え始めた。劉邦は、女が数えるままに捨て置いた。七十二、あった。へえ、そんなにあるのか、と、劉邦はその時自分の身体の秘密にほとんど興味もなく聞き流した。後に、七十二が大吉数であることを、聞いた。これは吉祥だ、と喜んだ。それで、沛の酒店で面白半分によく吹聴していた。女と寝た時でも、数えさせて遊んだ。ただそれだけのことであった。
「姜痴。ちょっと、こっちへ来よ。」
孔巫女は、薄暗くなってきた陋屋で、老いた姜痴を差し招いた。
「裾を、手繰り上げよ。股が見えるように。」
姜痴は、巫女が言うままに裾をたぐり上げた。皺で醜くゆがんだ顔と同じく、腿の肉も昔に比べてずいぶんそげ落ちていた。しかし、下腹部から足にかけては、彼特有の青いほどに白い肌の色であった。
「ぶらさげおって、邪魔だ。立てよ。」
彼のものは、膝にまで達していた。だが巫女に言われるやいなや、姜痴のものは見る間に反り上がっていった。それは、雄渾としか言いようのない壮観であった。例の毛は真っ白になっていたが、勢いは若い頃とさほど変わりはなかった。とても老人とは、思えないものであった。
「― 成長した蛟龍の子の顔を見たとき、驚いたわい。だがしかし、それだけではまだ証拠とならぬ、、、十、十一、十二、、、」
孔巫女は、左の股を数え始めた。常に無表情な姜痴の顔が、わずかにゆがんだ。
「― もし、本当にそうだとするならば、、、四十七、四十八、、、」
三十数年前に、二人がこの豊を去ったのは、孔巫女が知っていたからであった。詳しいことは、言えぬ。しかし、郷里で陰の婦徳にかしこまる女にも、時に陰陽が乱れて婦徳に静まりきれない時が出てくる。それは、陰陽の気の病であって、女が悪いのではない。悪いといえば陽の側の男も悪いのであり、もっといえば天地の気の情勢がおかしいのである。三十数年前、孔巫女が自らの卜占によって郷里の気の乱れを治めた後、彼女は姜痴を連れて去ることにした。きれいさっぱり、治まった郷里の気をこのまま乱さないためであった。
彼女は、数え終えた。
「七十、ニ。ふん、きっちり七十二あるわい、、、」



