宮中の策謀に関しては、李斯などよりも趙高の方がはるかに上手であった。
いきなり、丞相府に趙高がやって来た。
李斯は、殺すべき敵が会見を求めてきたので、当惑した。
趙高は、平伏して丞相に言上した。
「― 関東には、盗賊がはびこっております。ところが陛下は夫役を増して阿房宮を造営し、無用の犬馬などを集めておられる次第です。それがしは陛下をお諌めしたいのですが、このような大事を行なうには位が低く、その任にありませぬ。丞相閣下のような君侯のお方こそが、陛下に直諌なさるべき股肱の臣であると、考えまする、、、閣下は、なぜお陛下を諌めになられませぬ?」
まさか趙高からこのような言葉を聞かされるとは、李斯は想像もできなかった。
李斯は、吐き捨てるように言った。
「陛下に我らを会わせぬようにしているのは、郎中令、お主ではないかっ!、、、お主に言われずとも、我らは陛下に会見申し上げて直諌したいと、前々から思っていたのだ。なのに陛下は禁中の奥に籠られて、声を伝えることすらできぬ。余は会見申し上げたいと焦っているのに、機会すら与えられない。機会さえあれば、余は直ちに陛下に言上すべきだと、考えているのだ、、、!」
李斯は、趙高を罵倒した。
しかし、罵倒などは趙高にとって計算済みのことであった。
趙高は、李斯に返した。
「― ならば、陛下のお暇をうかがって、ご会見申し上げさせましょう。」
李斯は、二世皇帝と会見する機会を、敵の趙高から与えられた。
これは、罠であった。
しかし、李斯は大政治家であったが、策謀を知る人間ではなかった。彼は、荀子の下で韓非らと共に学を志すところから始まった男であった。彼は理論を実践する人であって、人間の悪の深さを理解するには、明晰でありすぎた。
李斯は、胡亥が暇であるという連絡を受け取って、皇帝がいる宮門にまで掛け付けた。
李斯は、皇帝に拝謁を願った。拝謁すれば命を賭けて説得して、趙高を斬ることを願い出るつもりであった。
宮門の番兵が、奥から答えを持って来た。
「― 陛下は、酒宴の最中であらせられます。」
李斯は、言った。
「酒宴ならば、暇ということであるな。直ちに拝謁申し上げたいと、陛下に取り次がれよ。」
李斯は、それから宮門で待たされた。
半刻もの間、丞相は答えを待ち続けた。
ようやく、番兵が胡亥の答えを持って来た。
「酒宴を楽しまれておられるので、暇はないとの仰せでございます、、、お戻りに、なられるように。」
李斯は、目を丸くして歯ぎしりした。
このようなことが、またも繰り返された。丞相李斯は、皇帝が暇であると連絡されて参上したならば、当の皇帝は後宮で女遊びの真っ最中であった。丞相は、またも追い返された。
三度目に、再び連絡が入った。
李斯は、行くより他はなかった。屈辱に身を震わせながら、彼は宮門に向かった。
果たしてこの時胡亥は、盛大な宴会に打ち興じている最中であった。彼は気に入りの俳優や力士を集めて余興の芸を行なわせ、女たちを左右に侍らせて笑い転げていた。
胡亥は、女たちに得意げに言った。
「朕の良いところは、人を殺さぬところだ。人殺しは、つまらぬ。朕はその気になれば、咸陽の官民全員を殺すことすらできる。だが朕は殺すことを楽しまず、こうして生きることを楽しんでいる。仁君であろうが?」
左の女が、胡亥に言った。
「陛下は、何でもお出来になるのですね。楽しんで天下を治められるなんて、何て素敵な生き方なんでしょう!」
胡亥が、哄笑した。
「それが、君主の真理なのだよ。己は何もせず、成果を全て独り占めするのが君主の座の特権なのだ。何もしなくても貰えるのに、何かしようとするのは救いようのない愚者なのだ。これが余人の理解できぬ、深い真理なのさ。」
右の女が、言った。
「なんだか、よく分かりませんわ。」
胡亥が、またも笑った。
「お前たちには、分かるまい。ひひひはは!」
左の女を、膝に抱きかかえて左手で愛撫した。右の女も、右手でたぐり寄せた。慣れた手つきで、衣の下に手を忍び込ませた。豊富な経験により、この手の動きだけは彼の巧みな技術であった。
そこに、取次ぎを求める連絡が入った。
またも、丞相李斯からであった。
「臣斯、昧死して天下の危急の事について奏したく存じ、参り越しました。どうか、拝謁をお許しいただくように。」
胡亥は、この無粋な進言に、眉をひそめた。
「せっかく暇なときに会見したいからと聞いているのに、丞相は朕が暇なときに少しもやって来ない。そのくせわざわざ朕が忙しい最中に、奏上を願いに来おる。奴は、朕の遊びを諌めたいとでも思っておるのか、、、君主は歓楽の限りを尽すべきだと申したのは、奴の言葉ではないか!」
実際は、胡亥が本当に暇なときには、李斯に対して連絡がなされることがなかった。こうして胡亥が遊びに熱中しているときを狙って、李斯は呼び付けられたのであった。趙高が、手配したことであった。
趙高が、このとき奥から胡亥の前に進み出た。
「丞相は、どうやら危のうございますな―」
彼は、胡亥の影として酒宴の席にも常に奥に控えていた。その彼が策謀の仕上げを行なうために、胡亥に囁いた。
「沙丘において陛下のご即位を協議したとき、丞相もまた加わっておりました。しかしその後丞相には、何の褒賞も与えられておりません。彼は心中、領地を奪って王になろうと思っていることは確実です。」
胡亥は、趙高に言った。
「確実か、、、!なるほど。朕も、そう思っていたところだ。」
趙高は、続けた。
「陛下がご下問になりませぬので、これまで臣はあえて申し上げませんでしたが、丞相の長子の李由には、異心あると思われます。」
胡亥は、趙高の言葉を受け取るばかりであった。
「異心?」
趙高は、言った。
「李由は三川郡守でありながら、陳賊を討つこともせずにやすやすと函谷関を通過させてしまいました。聞けば、郡守と賊との間に文書の交換があったとの由。はっきりと罪状を突き止めることはいまだできませぬが、丞相の権勢は朝廷の外では巨大なものです。父子が共謀して、賊と結んで帝位を奪わんと企むのは自然な成り行きかと思われます。」
胡亥は、趙高に言われれば言われるほど、丞相が不気味な存在となった。
趙高は、止めの一言を囁いた。
「丞相李斯は、楚の上蔡の出。彼は、楚人です。そして陳賊どももまた、楚人です。楚人は、秦に対する恨みを持っているのです―」
胡亥は、怒りに震え始めた。丞相への怒りは、結実しようとしていた。
そのとき、宴席の奥がにわかに騒がしくなった。
丞相李斯が、制止を振り解いて皇帝の前に現れた。



