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十九 定陶へ(1)

(カテゴリ:104動乱の章

丞相李斯は、五刑の全てを受ける処断が下った。

五刑とは、劓(ぎ。鼻そぎ)・黥(げい。顔面に入墨)・刖(げつ。足首切断)・宮(きゅう。生殖器切断)・死罪である。最大の苦痛と屈辱を合わせた後で、死罪に処す。秦帝国を始皇帝と共に作り上げたこの元勲に対して、二世皇帝と趙高が下した処罰はあまりにも残虐なものであった。最高の栄誉を得た者に対して、最低の恥辱を与える。それによって、専制権力とはどういうものであるのかを、万人に知らしめる。二世皇帝と趙高は、権力の原理を忠実に執行しただけであったのかもしれない。権力にとって大事なのは、人ではない。権力が侵されないこと、それだけであった。
李斯は、最後に咸陽の市で腰斬に処せられることとなった。
刑場に引かれて行くとき、彼は連座して死罪となるべき次男を振り返って、このように言ったという。

― 吾、若(なんじ)とまた黄犬を牽(ひ)きて倶(とも)に上蔡の東門を出て、狡兎を逐わんと欲するも、豈(あに)得るべけんや!

お前と一緒に、郷里の上蔡でまた黄犬を連れて兔狩りでもしたいと思っていたが、もはやできそうにもない、、、
かなわぬ望郷の念と、肉親との別れの悲しみを表した、彼の最後の言葉であった。大宰相の、これまでずっと抑え続けてきた本音であったのかもしれない。これがもし本当に彼の最後の言葉であったならば、それは冷酷で非情な秦帝国の歴史における、人間の情が通った数少ない言葉ではないか。
李斯は、一族と共に誅殺に合った。結局、始皇帝が崩御して以降の彼には、恥辱だけが残されていた。韓非と共に法家理論を編み出して、始皇帝に仕えて一世を革命した男は、その栄光を全てはぎ取られて消えていった。時は二世皇帝二年七月(李斯列伝の記述。秦始皇本紀では三年冬すなわち十月以降のこととなっている)、函谷関以東では激しい戦いが続いていた。彼の長男の李由もまた処断されるべきであったが、その使者が届く頃に彼は項羽と沛公に攻められて、すでに雍丘(ようきゅう)で敗死していた。
こうして李斯を殺した後に、秦帝国は果たしてどうなるのであろうか?
一つのことだけは、すでに確定していた。
趙高が、権力の全てを掌握した。
彼は、胡亥によって中丞相に任命された。
中丞相として帝国行政の頂点に立ち、皇帝の影として権力者の意志を思うがままに操る。趙高が、秦帝国のすべてとなった。
彼は、生まれながらの宦官であった。そのために、これまでの生涯をずっと屈辱の中に生きてきた。宦官は、主人の奴隷である。奴隷は、死ぬまで救われることがない。彼の生涯には、初めから暗黒が約束されていた。趙高は、暗黒の人生を生き続けさせられた。
彼は、始皇帝から胡亥の傳役(もりやく)に任じられた。いつしか、胡亥を操る立場となっていた。胡亥を始皇帝に近侍させることに成功したとき、趙高は彼を帝国の後継者に仕立て上げることができるのではないか、と気が付いた。理論的に可能だと分かったときに、陰謀が始まった。そして陰謀は成功して、胡亥は二世皇帝となった。
趙高は、二世皇帝に巨大な影響力を及ぼす身であった。彼の思考は、さらに進んだ。もはや全ての権力を握ることが、可能である。彼は、その機会を決して逃さなかった。
趙高にとって権力とは、自分が受けた屈辱を晴らす代償であった。誰も、自分に平伏することから免れない。平伏しない者には、死あるのみ。権力だけが、暗黒の人生しか許されていない彼の欠如感を埋め合わせて、生まれながらの彼の欠点を蔽い隠すための手段であった。
趙高は、想像をはるかに超えた権力を握ったので、もはや何でも思うがままにすることができた。
しかし、自分の思いのままにならないものが、まだ残っていた。
函谷関以東の、反乱者どもであった。
章邯将軍が、最大限の増援の兵を送るように、要請していた。
趙高は、兵のことなど何もわからなかった。それで、要求どおりに派兵してやることにした。
「― 失敗すれば、斬に処せばよいだけのことだ。成功しても、増長しないように制すればよい。かつて蒙恬を消したように、将軍などは権力によっていつでも殺すことができる。今は言うとおりに、やらせよう。」
彼は、宮中の策謀には長けていたが、兵事も民政も全く知るところがなかった。その上に恐怖をもって百官に君臨したので、へつらいの者は得ることができても効果的な献策を立てる者はいなかった。そんな彼が頼ったものは、力以外に何もありえなかった。

そして、再び反乱者ども。
李由を斬って大勝利を得た楚軍は、ますます意気が上がっていた。
項羽と沛公の勝利を聞いた武信君項梁は、相好を崩した。
「やりおるわい。沛公に、我が甥めは!、、、攻勢の時は近づいた。宋氏、君はこれから斉に赴いて、直ちに兵を送るように要請してくれ。勝利の時を、くれぐれも逃すなと伝えるがよい。」
項梁は、宋義という人物を近くに置いていた。兵法をよく知っているので、軍の細かな統制に重宝する男であった。項梁は、宋義が斉に知己が多いことを利用して、使者に用いようと思い立ったのであった。
宋義が、項梁に言った。
「― 勝って将が驕慢となり、兵が怠惰に流れるのは、敗北の前兆です。我が兵は、いささか怠惰に流れております。そして秦軍は、日を追うごとに増強されています。臣は、武信君のために憂慮します。」
項梁は、彼に諌められて醒めた。
「私は、驕慢であるというのか?」
宋義は、答えた。
「秦と本当に戦っていないのに、喜ぶのは早すぎる、ということです。城市の二、三個を陥として郡守を斬ったぐらいでは、秦を倒したことにはなりません。」
項梁は、そのぐらいのことは分かっていると言って、話を打ち切ってしまった。その後で、宋義が自ら斉に使者として行くことを申し出て来た。項梁は、これを許した。
斉への使者の一行の中に、韓信が入っていた。彼は、このとき項梁の下に郎中(ろうちゅう)として従っていた。彼は項羽の凄まじさに付いていけず、叔父の武信君の配下となっていたのであった。
一行は、斉都に向かう途上で、とある亭に逗留していた。
そこに、斉都からやって来た高陵君という人物が、同宿していた。
両者は、丁重な挨拶を交わして、親しく言葉を交わした。
「どうやら、旧知の間柄なようだな、、、この宋義という人物、相当に人脈が深い。」
韓信は、思った。
夜、宋義と高陵君は、亭の一室で歓談していた。
韓信は、近侍の一人として室の脇で彼らの会話を聞いた。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章