宋義が、言った。
「武信君は、斉が出兵するならば追放された王の田假の首を渡してもよい、とまで申しておりました。」
高陵君が言った。
「ようやく、楚人も気付きましたか。田假の輩は、斉にとって一身の患い。生かしておいては、なんで出兵などできましょうか。楚とか趙とかは、田假の党を国内に留め置いていることによって、身中に蝮を飼っているようなものです。斉の力を得られることなく、蝮の毒はやがて全身を亡ぼすでしょう。斉国抜きで秦に当ろうなど、笑止、笑止!」
二人は、音を立てて笑い合った。
ひとしきり笑い終わった後、高陵君が言った。
「それがしは、これより武信君に会見に向かうところです。武信君の兵は、最近好調なようですな。さぞかし、得意となっておられるでしょう。」
宋義が、答えた。
「むしろ、驕慢と言うべきですな。彼は、敵をよく知りません。孫子曰く、『彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆(あやう)し』です。今の武信君は、その状態といえましょう。」
「、、、ほう。敵は、それほどに強いですか?」
高陵君の質問に、宋義は答えた。
「それがしは、秦軍を率いる章邯の用兵をこれまで観察して来ました。秦軍は大数の兵卒車馬を動員しているにも関わらず、その行軍は整然として軍形には乱れがありません。特に、退却に移った際の撤兵に秩序があることを見て取りました。これは、兵をよく動かす将のなせるわざと言うことができましょう。」
彼らの脇で会話を聞いていた韓信は、宋義の観察が適確な点に感心した。
(確かに、兵とは攻勢に出ているときは強いが、いったん敗れたときには乱れるものだ。兵を思うがままに動かしている将は、軍政を整えていると見なければならない。)
宋義は、さらに分析を続けた。
「そのような善く兵を用いる将が、東阿で敗れて以降撤退を繰り返すばかりでいささかの攻勢にも出ておりません。思うに、これは敗れているのではない。『其の徐(しず)かなること林の如く』で、反撃の機会を準備していると見るべきです。その上、敵軍の動きがこちらの間諜を使っても、しかと読むことができない。秦軍は確かに動いているのですが、その赴く所がそれがしにもはっきりと分からないのです。孫子兵法に、曰います。
― 兵を形(あらわ)すの極は、無形に至る。無形なれば、則ち深間(しんかん。間諜)も窺うこと能(あたわ)ず、智者も謀ること能ず。(虚実篇) ―
章邯は、内には兵をよく用い、外には無形をよく保っています。兵法を知った、将と言うべきです。侮ってはなりません。」
韓信は、宋義の明察に感銘を受けた。
そして、楚の将来に対して、改めて戦慄が走った。
(敵将は、恐るべき巧者だ。目先の勝利は、まやかしのものだ。全力で当らなければ、全ての国が危ない!)
しかし、その後で宋義が高陵君に言った言葉は、韓信をさらに驚かせるものであった。
「ゆえに― 高陵君。あなたは、武信君のところに行くべきではありません。行けば、巻き添えを食って禍を受けるでしょう。」
韓信は、彼の言葉の意味が最初よく理解できなかった。それは、彼が持っている常識を超えた発言であった。
宋義は、言った。
「武信君は、章邯に敗れます。おそらく、大敗するでしょう。そんな所に、あなたまでが行く必要はありません。可能な限り、ゆっくりと遊んで道程を進みなされよ。それが、命を永らえる道というものです。」
高陵君が、にやりと笑いながら、言った。
「それで、あなたも命を永らえるために、こうして斉の使者となって武信君から離れようとなさった―」
「― 意地の悪いことを、おっしゃる!」
宋義は、苦笑した。それから、両名で揃って哄笑した。
韓信は、耳を疑った。
(― 何という、連中だ!勝つよりも、己の保身の方が大事なのか?楚と斉が一致しなければ、秦に勝てないのではないのか?)
韓信は、その晩の二人の会話を、信じることができなかった。
宋義は高陵君に対してはあのようなことを言っていたが、実際には斉と楚を繋げることに努力するはずであろうと、彼は思った。
ところが、宋義のそれからの行動は、韓信の常識をやはり裏切るものであった。
宋義の取った行程は、まことにのんびりとしたものであった。斉都に急ぐこともなく、途中で会見した他の斉の高官たちと夜な夜な交歓を繰り返すばかりであった。とても、危機が迫っていることを認識している人物の取る行動とは、思えなかった。
(宋義とは、こんな奴だったのか、、、いけない!)
韓信は、もはや宋義と共にいることはできなかった。
彼は、一人で楚に戻ることにした。武信君項梁に、危機を告げなければならないと思った。宋義の人物は見下げ果てたものであったが、彼の兵を見る目は確かであった。彼の言うとおり、秦軍の反撃は間近に迫っているに違いない。韓信は、項梁のいる定陶に急いだ。
ちょうど、その頃。
章邯が、密かに秦兵を集結させていた。
彼は、楚の総指揮官である武信君が、定陶にいる情報をすでに掴んでいた。
「一戦で、仕留める。荊舒(けいじょ)の川猿めが、秦兵とはどのようなものかを、思い知らせてくれるわ、、、」
彼は、東阿以降に兵を新たに入れ替えて、物量をさらに増強した。ここまで兵には戦いを避けさせて、必勝の一戦を待った。隊を分けて進ませ、敵にその動きを知られないように図った。不敗の態勢は、整った。後は敵の虚を付いて、勝利を現実のものとするだけであった。
章邯は、軍吏に命じた。
「定陶の城下に、敵軍主力が集結している、、、兵馬に、枚(ばい)を含ませよ。夜のうちに、敵前に出て準備を行なう。急げ!」
季節は、九月であった。晩秋の風が広漠とした河北の平原に吹いて、空気は乾いていた。



