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2013年05月 アーカイブ

2013年05月01日

『外務省に告ぐ』佐藤優

『国家の罠』が2005年、『北方領土「特命交渉」』が2006年、そしてこの著作(評論集)が2011年である。
急速に悪化する外交情勢、日本外交の体力低下、最初の数ページか胸に重いものが沈んでいった。

鳩山総理は、20歳の頃に確率論に熱中していた、理系畑の珍しい政治家である。
彼の決断スタイルへの佐藤氏の推測は、驚くべきもの。

『終焉をめぐって』柄谷行人

○帝国とネーション
「この事態は、現在のトランスナショナルな資本主義が「一国」単位の経済を無効にしてしまっているにもかかわらず、なお産業資本主義が「国民経済」なしにありえないという矛盾を、中間的に解決しようとするものであるということができます。」(p17)
「古代帝国では、ローマ帝国がそうですが、普遍的なローマ法があり、それが遵守されていれば、帝国に属する各民族は、それぞれの同一性を保ちながら勝手にやっていることができたのです、、、中国の帝国にしても同じです。日本もこの帝国のなかに属していたわけですが、従属していることすらほとんど意識しないでやってこられたのです。」(p18)

PRCは、何を目指す?「帝国」か?版図内の民を暴力で同化する「帝国主義」か?「帝国」であるならば、いったい何の普遍性を版図に配ることが可能なのか?あるいは文化的に多様を許し、経済的に略奪を極める、モンゴル帝国→ロシア帝国→ソビエトブロックを目指したいのか?

○議会制の問題
「ハイエクのような自由主義者は社会福祉の拡大に反対しています。それは、国民と外国人の区別をすることになり、新たな移民を排除することになるからです。実際、民主主義者は、不況期においては、『国民』の保護と移民の制限を主張するはずです。」(p57)

ハイエクは、国家不要論者であり、ゆえにアナキストである。これは理論的には可能であるが、産業社会においては国家-ネーション-資本の環が崩れることはないので、不可能である。皮膚の内と外は、連続的であるか、それとも非連続であるか。分子レベルにまで接近すれば、分子の密度が濃いか薄いかの差があるにすぎず、ゆえに連続的である。しかし非連続である、という見方もありえるし、常識的にはこれが真理であると受け取られている。

「敵対と交換は、『交換』そのものの危うさに根ざしているのだ、と。」(p63)

外国人と交流・交易することは可能であり、そこには自然法がある。それは、私の経験からいっても確信できる。しかしながら、それが安全ではありえないということを、これまでの私はどうも見過ごしていたように見える。今の日本で湧き上がっている排外思想に対する上から目線の批判者たちは、「交換」の危うさに十分眼を向けていないのではないか。

「ファシズムの本質は、『すべてを代表する』ことによって、議会制における諸党派の対立を『止揚』してしまうような形態にあります、、、実際は、それは完了、あるいは行政権力の支配に帰結します。」(p67)

2000年代以降の日本は、ボナパルティズムであった。
小泉政権は、ボナパルティズムであった。これは、佐藤優氏の意見でもある。
鳩山政権は、必ずしもボナパルティズムでなかったが、官僚の壁を突破できず、結果的にボナパルティズムに墜落した。
日本の現在は、ボナパルティズムにより代表者がいない大衆の支持を受けた政治が支配し、それは実は官僚支配であり、しかしその官僚が無能であり国益を著しく損なってしまっていることが問題である。

『可能なるコミュニズム』柄谷行人

○「トランスクリティーク」結論部
「そして、彼らは市場経済が混乱するとい、それをもたらしたものとして投機的な金融資本を糾弾したりさえする、まるで市場経済が資本の蓄積運動の場ではないかのように」(p19)

『反省』鈴木宗男・佐藤優

佐藤「だから、この小では日本外交について反省し、そのビジョンを語らなければならないわけですが、日本を代表して各国と外交交渉するのは、なにも特別なことではなくて、ちゃんとした日本人としてよその国の人と話をするということです。」
鈴木「それが、いちばんの基本ですから。」
佐藤「その基本が、日本国外務省の職員たちに備わっているかという問題です。義理も人情も恥も忘れた彼らは、同じ日本人として、『ああ、この人は信頼できるな』と思えない人たちなんです、、、」(p265~)

試験エリートたちが論語や孟子をきちんと読んでいたら、このような人間が作られることはなかったであろう、、、「君命を辱しめず」という外交官としての基本の言葉が、エリートたちの心中から失われているというのであろうか?いや、佐藤氏は、そのような者は組織内にもいる。ただ、そのような者が省内で力を持てず、上のような者たちが力を持っている、と言うのである、、、

天懲

今、ちょっとした間違いを犯してしまって、毎日が苦痛である。
こんなとき、どうするだろうか。
TwitterとかFacebookとかでとりあえず愚痴をわめき散らして、例え少数でもよいから仲間たちに同情の言葉をかけてもらい、後はさっさと今の状況から逃げる手立てを考える。職場ならば、辞める。私のように住居ならば、できるだけ安くなる手段で転居する。

正直、そうしたいという欲望が、私にもある。生きていると、天が自分を罰しているかのように、こんなはずじゃなかったと後悔する状況に追い込まれることは、誰でも必ずあるはずだ。賢しらな者は、事前にリスクを計算して慎重に判断しないから悪い、彼を知り己を知る算段をしないのが悪い、と一笑に付すであろう。
しかし、それを言ってはいけないのではないか。
天が罰するかのように、思惑違いの苦しみを受けることは、むしろ人生であるに決まっていると考えるべきではないか。
だから、今どきならばネット上で愚痴を言って慰めてもらうのは、精神衛生上健康を保つためなのだ。私は、そう思う。

だが、引っかかるものがある。

逆境は、奮起してより高いものを目指すチャンスである、という昔からの君子への教えがある。
愚痴を言って逃げることばかり考えていたら、奮起する機会は得られないのではないか。
今や、組織に頼って生きてはいけない時代であり、逆境に陥ったとしたらそれは「天懲」(小田の造語)であり、自ら君子として自立する力を積むための期間ではないか、と思うことも、大事なのではないか。

この考えが広まったならば、多くの人が立ち上がるはずではないか。思うようにいかない逆境などは、TwitterやFacebookを見れば、多くの人に常に常にふりかかるものであるから。

*誰にでも開かれているが、誰でも取り上げることはしない思想。今の日本に心あるエリートを育てるためには、そんな思想が必要。
*逆境に陥ったとき、それが宗教の救いに目覚めるチャンスである。儒教の優れているところは、しかしながら、逆境に陥ったときに自分が社会的存在であり、家族と地域と仲間と国家のために貢献する力を蓄えるチャンスである、という天吏の自覚に目覚めるチャンスであるところではないか?

2013年05月02日

「『世界史の構造』を読む」柄谷行人

2010年代になって、いまだ思索を進めて理論を深化させている。柄谷氏は、偉大な思想家である。私の評価では、すでに思想家の格として吉本隆明を越えている。格とは、時代に真摯に向き合い続け、マルクスの「全ては疑いうる」という言葉を決して忘れはしないという点での評価である。仕事の内容の高低で言っているのではない。

「今後の世界で有力になっていくのは、武力や金の力ではなく、贈与の力だと思いますね。たとえば、名誉や威厳、恥のような観念が重要になってくるでしょう。つまり、インターナショナル・コミュニティでは、互酬性の原理が強くなっていくと思いますよ。以前なら、GNPや領土が大きいことを自慢していたけれど。」(p110)


まさに、わが国が目指すべきことだ。日本文化は、我々が愛しているから崩したくないのであり、多くの人に愛してもらいたいから広めたいと願うのである。上から目線の日本礼賛など、捨ててしまえ。

交換様式D、統制的理念、高天原。これらを広めるために、私としてできることは何か。

荀子・韓非子は、現実を作った理論家にすぎない。より論理が明快なホッブスやマキャベルリを読めばよいのであって、現代的価値はない。

孟子は、内面の人である。今の時代に必要なのは、内面の陶冶ではない。

やはり、孔子であろうか。

「(山口)民主党の一番大きな問題は、理念や思想のレベルできちんとした土台を作っていなかったということです。」(p352)
大きな理論が砕け散ったから、めいめいが小さな理論でしか世界を語れない、バベルの街。それが、民主党であったか。

「ホップズ的原理、あるいは交換様式Bの拡大であるなら、どんな世界国家、世界政府も、自然状態を克服できないのです。」(p244)
「今はこう考えています。おそらく、新たな世界システムは、部族連合体のような互酬的な原理による社会契約によって形成されるだろう。」(p245)

統一権力による世界政府、は現代の問題の解決への道ではない。

「大陸だったら、民族浄化でDNAさえ残せずに滅びていた民族が、日本列島まで逃げてくると、共存共栄できた。いわば帝国からの逃げ場としての昨日を果たしてきたからだとも考えられる。」(p264)

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人間と異質なものと出会うとき

キリスト教は、それを神であると言う。
親鸞は、弥陀のはからいであると言う。
これが、人間が人生で常に出会う、人間の力ではどうにもならぬ、異質な出来事への態度である。

病気になったとき、理不尽ないじめに会ったとき、不本意な就職をしたとき、犯罪や震災に巻き込まれたとき、そもそも悪い時代に生まれてしまったとき。

孔子が、不利なときは逃げるのもありだと説くのは、そのような異質なものと出会ったときには「天命」であるとして、怨むことなく楽観的に心を腐らせずに生きよ、と言うのではないか。

司馬遷が不条理な罰を受けたとき、彼は漢帝国に自分を捧げる身であると心で慰めただろうか?
そのようなナショナリスティックな陶酔は、古代に成立しえないだろう。

2013年05月03日

『国家論』佐藤優(再読)

「このように、ナショナリズムの中には基本的に認識の非対象性が孕まれている。ネーションをめぐるこの論理を前提とすれば、結論として国家間にはたいへんな亀裂が生じるしかありません。だから、ネーションの論理と極力違うところで議論をするしかないのです。ネーションの論理をふまえて、『慰安婦』問題や原爆の問題を他国と議論した場合には、結局は国家として強いほうの見解が流通することになり、弱いほうは負けてしまう。」(p166)

そういえば、9.11の後でタリバンのスポークスマンが、アメリカの非道についてヒロシマを挙げていた。日本人は、皆ポカンとしながら聞いていたはずだ。彼らは、反アメリカの理として言及していたのであるが。

日本の道は、
・ネーションの論理で勝つように世界世論のフレームを変える?-これは、困難で薮蛇になりかねない。
・ネーションの論理を超えた普遍性を主張する戦略を立てる-これが、正攻法であるはずだ。だが拉致問題を人権問題として取り上げるのであれば、国内の人権問題、マイノリティ問題について本気で取り組まなければ、何の説得力があるか?自ら相手国より数層倍努力することによって、相手に説得力で圧迫しなければならない。

ゲルナーのナショナリズム定義による、ナショナリズムで鍵となる特性
・同質性
・読み書き能力
・匿名性(下位集団をほとんど持たず、全員が直接的に集団に結びついている)
つまり、産業国家が登場しなければ、ナショナリズムの発生条件が成立しない。
ナショナリズムは、想像の上での連帯意識を高揚させる。よって、資本が貫徹したアトム化社会において、たやすく要望されて普及する。

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2013年05月04日

『双系制をめぐって』柄谷行人

明治以前 -- あいまいな双系制。武士道
明治維新~明治末年まで -- 近代化の脅迫の下で作られた父系化。儒教化、キリスト教
大正時代~日中戦争 -- 成功した社会の下での双系制への揺り戻し。私小説
(日中戦争~敗戦) -- 天皇制強化による父系化。植民地における神社崇拝と日本人化の強制。
戦後~1960年代 -- 天皇制に代わるコミュニズム原理追求による父系化。ただし大衆レベルでは浸透せず。
1970年代~ -- 高度成長の成功による双系制への揺り戻し。ポストモダン。ヲタク文化。

「それゆえにまた、歴史的な、対外的な危機において、たえず変容するものです。今後においても、急激な変化がありうると思います。」

1970年以降の双系制時代が、今外部からの圧力によって揺らいでいるように見える。再び父系化の時代となるのであろうか。そのとき日本人を縛り付ける原理は、ナショナリズムであろう。日本人は、そのときナショナリズムに適応するのであろうか。

『岸信介』原彬久

「問題は、新条約の核心ともいうべき第五条とそれに関連する条項である、、、新条約第五条は、、、アメリカが日本領土を防衛し、日本が日本の施政下にある米軍基地を防衛するという、いささかトリッキーな内容をもつことになるのである。ところが、第五条はそれだけをみれば確かにトリッキーだが、この第五条の仕掛けをそれでよしとするほどアメリカは甘くない。第六条のいわゆる極東条項がこの「仕掛け」を十分説明している。」(p229)

日米安保条約は、第五条でアメリカが日本を一方的に防衛することを認める反対に、アメリカが極東(だけでない)地域に自軍を展開するための基地を恒常的に日本列島に確保することを日本に認めさせた、取引の条約である。

岸氏は、これを完全に日米対等するために、憲法とりわけ9条を改正しようと構想し続けていた。
安倍政権もまた、同様である。おそらく、9条改正→安保五条・六条改正→沖縄基地の削減と日本軍による肩代わり、という長期的シナリオであろう。いわば「9条を改正して沖縄を救う」という計であろうか。

アメリカとしては、在日米軍の価値は、極東地域へのプレゼンスを低コストで維持するところにあるはずだ。
かつては、極東最強国の日本と深い関係を保っておくという意味合いもまたあった。
しかしながら、現在アメリカは日本と中国の両方から利益を得ようと考えているはずである。中国からの利益を犠牲にしてまで、日米同盟を維持するメリットはもうないと考えているであろう。

9条をそのままにして、日米安保を破棄する道を取るとすれば?
その場合、日本は軍事力増強を行うしかないであろう。

『世界共和国へ』柄谷行人

「未開社会のシステムは、国家への移行を拒むために作り出されたものだとみるべきでしょう。、、、それは交換様式A、つまり互酬の原理を純粋に貫徹することです。」(p42)

「国家は、そもそも他の国家(敵国)を想定することなしに考えることはできません。国家の自立性、つまり、国家を共同体や社会に還元できない理由は底にあります。」(p51)

「ここから見ると、普遍宗教が存在した位相が見えます。最初に述べたように、それは第三象限(C)の都市空間に出現し、かつ、そこから、第四象限の空間を開示(預言)したものです。」(p94)

孔子は、ウェーバーのいう「模範的預言者」である。それは都市国家において発生し、国を越えた倫理として中国文明圏に広がっていった。

「普遍宗教がもたらしたのは、自由の互酬性(相互性)という倫理的概念です。」(p102)

国家への一方的な服従を退け、朋友間の横のつながりを重んじる倫理は、農村共同体の中で互酬関係が自明であった状態が崩れて、都市に集い実力で朝廷に召抱えられようとした階層が群がり出てきた時代に、孔子学校において現れた。

2013年05月05日

『世界史の構造』柄谷行人

「だが、今回、生涯で初めて、理論的体系を創ろうとしたのである。私が取り組んだのは、体系的であるほかに語りえない問題であったからだ。」(序文より)

「ニーチェは、罪の意識は債務感情に由来すると述べた。」
「贈与することは、贈与された側を支配する。返済しないならば、従属的な地位に落ちてしまうからだ。」(p19)
戦後の中韓-日本関係は、中韓側からの贈与の感情(日本側の債務の感情)によって安定していた。
これは、互酬の輪の関係であった。
中韓は、いまだにその関係が持続するべきものと観念している。
しかし、日本の側が変化した。日本は、債務を支払ったので対等である、という観念が現在支配している。
ゆえに、中韓と日本との関係が険悪になっているのである。すでに互酬の輪が切れているのであるから。

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2013年05月06日

『世界史の構造』柄谷行人(つづき)

p108以降、古代中国の考察が入る。重要。

(古代ギリシャとの類推)

殷王朝-ミケーネ帝国(?)
完備した専制帝国

文王・武王による侵略-北方蛮族の侵入
より文化が低く、同時により氏族制原理を保って自由・平等な原理を持った蛮族の侵入により、先行する帝国が崩壊する。それと共に、統治術や物質文明のテクノロジーが失われた。ギリシャではこれを暗黒時代と称し、中国では戦争が無かった黄金時代と表象した。

春秋時代-都市国家時代
前代からの自由・平等の原理がかなりの程度保たれながら、文化が復興する。都市国家間の抗争が活発になり、工芸が発達する。従来の氏族社会の統治術が次第に有効性を失い始める。それに応じて、新しい統治術が模索され、思想家が生まれる。ギリシャではこれを黄金時代と表象され、中国では戦争が続いた暗黒時代と表象された。

戦国時代-マケドニア世界帝国
氏族社会がすたれ、官吏と常備軍を備えた専制国家が復活する。それとともに君主による支配・恩恵と臣民の服従・奉仕の体制が整う。この時代に、国家に背を向ける思想としてギリシャ世界ではストア派、中国では老荘思想(儒教にもかなりこの傾向があることは、論語微子篇から明らかである)が勃興する。

ギリシャ・ローマは、オリエントの専制帝国を版図に加えてこれを統治する必要性から、氏族社会から専制帝国へと脱皮した。古代中国であるが、最初に法治を開始したのは中原地方諸国であった。鄭の子産が春秋末期に始めて成文法を使用し、戦国時代初期の魏が法治を大々的に採用し、韓の思想家たちがそれを理論化した。これらのことが、従来の氏族社会の抵抗なしに起こったとは、思えない。ここで、国家は他の国家の存在によって成立する、という柄谷氏のテーゼを応用する。戦国時代の官僚制・常備軍は、オリエント専制帝国の影響をおそらく強く受けたと思われる秦王国が法治と官僚制を採用して強大化したことによって、他の六国もまた防衛措置として反射的に中央集権化していったのではないだろうか。専制帝国の理論は中原から現れたが、それが中国全土で採用せざるをえなくなったのは、秦の影響ではないだろうか。げんに、中央集権制度を楚で成立させようとした呉起は、貴族階層の反撃を受けて殺されている。

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『世界史の構造』柄谷行人(つづき2)

p231、孔子を普遍宗教として捉える柄谷氏の説明。

「先ず、孔子が説いたのは、一言で言えば、人間と人間の関係を「仁」にもとづいて立て直すことである。仁とは、交換様式でいえば、無償の贈与である。孔子の教え(儒教)のエッセンスは、氏族的共同体を回復することだといってよい。もちろん、それは氏族的共同体を高次元において回復することであって、たんなる伝統の回復ではない。特に、孔子の思想におけるその社会変革的な面は、孟子によって強調された。しかし、現実には、儒教は、法や実力によってではなく、共同体的な祭祀や血縁関係によって秩序を維持する統治思想として機能した。」

孔子の思想には、二面性、いや三面性があった。
一面は、氏族的共同体の倫理、すなわち朝廷内での互酬性の維持&成文法によらない伝統的慣習によるゆるやかな統治を理想とする、回顧的理想。
二面は、仁義という氏族共同体の範囲を超えた普遍的倫理により、新しい互酬共同体を目指そうという、千年王国的理想。
三面は、拡大していく官僚制古代国家に対して有効で慈悲深い統治術を適用し、そのための理論を構築しようとする、福祉国家的法治国家を目指す理想。

孟子は、堯と舜とが君臣でありながら友人であったというエピソードを取り上げて、君臣の関係が主人と奴隷の関係でないことを強調しようとする、一つめの面があった。他方、君主に民の父母であれ、人民の生活を安定させる福祉国家を目指せ、と王に説き伏せ、三つめの面を追及しようとした。三つ目の面のうち、しかしながら、法治については、その態度はあいまいである。

墨子は、葬儀、音楽を否定し、家族関係を否定し、つまり伝統的文化を価値がないものとして捨てて、ただ対等の人間の間が兼愛することが理想の社会を作ると説いた。すなわち、孔子の二つめの面をラジカルに追及した思想家であった。墨家の運動は千年王国的な行動主義であり、国家を構築するという三つ目の面の課題についての意識は全く欠落している。

荀子は、一つめの面を不合理であるとして、完全に捨てた。二つ目の面については、それは君主が作った「礼」の制度の中で実現される、と説くことによって、全ての課題を三つ目の面に集約させた。これは、古代国家のイデオロギーに完全に適合するものであった。その後を受けた韓非子・李斯は、荀子から儒家の仮面を剥ぎ取って、古代帝国の統治術に一本化した。漢代武帝時代に復活した儒教は、完全に荀子の立てた課題に応じた福祉国家へのすすめになってしまった。

『世界史の構造』柄谷行人(つづき3)

「この問題を考えるために、まずブローデルにもとづいて、世界=帝国と世界=経済を区別することから始めたい。これらの違いは、国家による交易の管理があるかどうかという点に集約される。」(p239)

「国家が自立的で独自の意志をもつということは、国家の内部では見えない。そこではつねに多くの勢力が争い、多くの意見、利害、欲望が絡まり合っているからd。あところが、他の国家に関しては、それが何か意志をもってふるまっていることは明らかなようにみえる。つまり、国家は、外から見たときに、国民とは別の自立した存在としてあらわれる。それはまた、国家が、他の国家と関係する次元では、国内で見慣れているものとは疎遠な、すなわち、”疎外された”かたちであらわれるということを意味する。」(p254-255)

野田総理による尖閣国有化は、中共首脳部から見ると石原と総理の共謀による主権強化にしか見えなかったという。日本側がどれだけ共謀などない、と説明しても(実際、ないのであるが)、聴く耳を持たなかったという。これは、中共側が日本を国家理性を持って敵対しようと動いている主権者であると見ている証拠である。おそらく中共側にとっては、一連の対日行動は内部の複雑な利害関係の結果として今のようになってしまっただけで、自分たちの真意を日本は理解していない、と言うであろう。(実際、そうに違いない。)だが、その見方を日本側が共有することは、今の時点では期待できない。

「フランスにおけるボナパルトやプロイセンにおけるビスマルクの登場は、国家が自立的な存在であることを如実に示すものである。」(p266)
・政策を立案する官僚
・通貨価値の維持
・法の強制
・保護主義立法
・均質的国民の教育
・常備軍の維持
・課税による収奪と再分配
国家は、課税と再分配により市場社会により孤立化した大衆に向けて、互酬的機能を果たして民力を結集する。
国家は、通貨価値の維持、法の強制、保護主義立法、均質的国民の教育を行って、市場社会の成立条件を提供する。
以上のような政策を維持するスタッフとして官僚を持ち、国家を他国に対して維持するために常備軍を持つ。

「私企業が官庁よりも目的合理的に見えるのは、それが官僚制的でないからではない。何よりも、その『目的』が資本の自己増殖(利潤の最大化)という、明白かつ単純なものだからである。」(p269)

「産業資本の画期性は、労働力という商品が精算した商品を、さらに労働者が自らの労働力を再生産するために買うという、オートポイエーシス的なシステムを形成した点にある。それによって、商品交換の原理Cが全社会・全世界を貫徹するものとなりえたのである。」(p280)
オートポイエーシスなシステムが、資本主義を自己増殖させる根源の力である。前近代の商業は、社会全体を市場として巻き込むことをしない。21世紀になって、それまで市場として巻き込まれていなかった中国、インド、ロシア、ブラジルといった大人口社会が市場として巻き込まれることとなり、これが資本の流れを一変させている。おそらく、BRICsの賃金と先進国の賃金がカントリーリスクの分を残して同一になるときまで、世界において目立った技術革新は起きないであろう。その必要が資本にないからである。

『世界史の構造』柄谷行人(つづき4)

「ネーションは『想像された共同体』であるという場合、それは『空想』でなく『想像』なのだということに留意すべきである。いいかえると、それはたんなる啓蒙によっては消すことができないような根拠をもっているのだ。」(p323)

カント-悟性と感性とは区別され、それらは想像力によってのみ繋げられる。
理で考えれば、諸国民同士が反目するのはおかしい。
しかし現実的には、諸国民同士がいまだに激しく反目している。ここには分裂がある。

2013年05月07日

『日本近代文学の起源』柄谷行人

※講談社単行本で読む。

「柳田國男が昭和になってから常民と名づけたものは、けっしてcommon peopleではなく、右のような価値転倒によってみえてきた風景なのである。」(p34)

最近でも繰り返されている。ヲタク文化をアカデミックに語ろうとする東浩紀らは、柳田の作業をまた反復している。

「いうまでもないが、言文一致は、言を文に一致させることでもなければ、文に言を一致させることでもなく、新たな言=文の創出なのである。」(p42)

「時枝誠記がいうように、日本語は本質的に『敬語的』なのである。」(p49)
「いわく」「のたまはく」を分けることは、日本語だと重大である。この重大さは、同じ敬語を一応は備えている韓国語の話者であれば、ある程度分かるであろう。しかし、敬語のない漢語、あるいは西洋語の話者には理解できない。

「この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼は『文学』とけっしてなじめないものをもっていたのであり、また『表現』を拒絶する視点をもっていたのである」(p82)

『世界史の構造』柄谷行人(つづき4)

「国家と国家の間に経済的な『不平等』があるかぎり、平和はありえない。永遠平和は、一国内だけでなく多数の国において『交換的正義』が実現されることによってのみ実現される。」(p349)

国家と国家の関係を、個人と個人の関係になぞらえ、互いを手段として用いない互酬性を理想とするならば、上の言葉は自明である。そして、悟性と感性との格差は、あまりにも大きい。

「歴史に目的があるというのは仮象である。が、これがないと、やはり統合失調症になる。結局、人は何らかの目的を貢げずにはいないのである。」(p350)

「超越論的仮象」-理性が生み出す仮象であり、理性がそのような仮象を必要とする。


アダム・スミスは、市場経済においても道徳感情が働く、と言った。カントは、立場を異にして道徳法則は理性的であると言った。ヘーゲルは、ひっきょう社会道徳は国家の内部で体現される、同朋意識であるとまとめてしまった。

p429に、柄谷氏の今後の世界展望。

「こうした帝国間の争いの果てに、新たなヘゲモニー国家が成立するだろうか。これまでの経験からは、『帝国主義的』な状態が六〇年ほどつづき、その後に、新たなヘゲモニー国家が生まれた。だが、今後については、そのような予測はできない。おそらく、今後において、中国やインドが経済的な大国となることは疑いをいれない。そして、それが旧来の経済大国と争うということもまちがいない。しかし、それらが新たなヘゲモニー国家となるかというと、疑わしいのである。第一に、一国がヘゲモニー国家となるには、経済的な優位以外の何かを必要とするからだ。第二に、中国やインドの発展そのものが、世界資本主義の終わりをもたらす可能性があるからだ。」

第一については、アムステルダム、ロンドン、ニューヨークがそれぞれの時代の亡命者の受け入れ先であったところに、ヒントがあると思われる。それら真のヘゲモニー国家の都市と異なり、ヘゲモニーを求めて挑戦したドイツと日本のベルリン・東京は、そのような世界の「アジ-ル」を提供しなかった。おそらく中国、インドも同等の存在にとどまるであろう。

第二については、2013年時点ではいまだ兆候が見える程度である。人間もまた自然の一部であり、労働力商品は資本の力で再生産不可能な自然であることを考えたならば、中国の優位性を保ってきた低賃金による巨大な労働力人口のメリットは、2010年代に入って急速に閉じられている。結局、次はインドが追いつく番となるであろう。だが、それは世界環境の破壊をさらに推し進めるだろう。

「資本は自己増殖することができないとき、資本であることをやめる。したがって、早晩、利潤率が一般的に低下する時点で、資本主義は終わる。だが、それは一時的に、全社会的な危機をもたらさずにいない。そのとき、非資本制経済が広範に存在することが、その衝撃を吸収し、脱資本主義化を助けるものとなるであろう。」(p441)

ソ連崩壊直後の栗本慎一郎氏のロシア旅行レポートを読むと、ロシア経済はどうやら非資本制経済が広範に広まっているようである。彼らは一人当たり所得としては貧しいが、実際の生活は貧しくないようだ。
日本社会もまた、非資本制経済を広める地盤は、アメリカや中国以上にあるように見える。年収100万円で、強制されて働くことをせず、衣食住は確保されることは、これからの人口減少社会においてさほど難しくないように思われる。問題は、国家が衰退する中で、いかに人々の知的水準を高く保つかではないか。

『ハーバーマス』中岡成文

悟性(理性)と感性(自然)の分裂

ヘーゲル-歴史の上で両者は和解される
シェリング-和解に向けて努力しなければならない分裂がある

「ハイデガーとともにハイデガーに反対して考える」(1953)
目的追求的・道具的理性 「デカルト以来の計算し、操作する合理性」(p39)
対話的理性 「意味を理解しようと聞き取る」理性

「ハイデガー、、、の誤りは、近代の独話(モノローグ)的に窮まりつつある思想伝統を打破するために、対話(ダイアローグ)性に訴えるかわりに、実存主義的な別の独話性・非合理性に陥って、政治的にも重大な帰結を招いたということだ。」(p40)

○保守性、制度の価値について
佐藤優氏は、バルトを援用しながら、別の神を招き入れるよりは既存の神のほうがよい、という視点から保守性と制度を擁護する。
アーノルト・ゲーレン 制度に身をゆだねることの賢明さを説く

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『ハーバーマス』中岡成文(つづき)

1960年代欧米の反資本主義学生運動は、全て失敗に終わった。
しかし唯一成功した革命があった。アヤトラ・ホメイニによるイランイスラム革命である。
また、1990年代のアンチ・グローバリズム運動は、今のところ資本-国家-ネーションに何の脅威ももたらしていない。
しかしこのボロメオの輪にそれなりの脅威を与えたアンチグローバリズム運動がある。アルカイダである。
学生運動も、アンチグローバリズムも、中東で成功した運動については沈黙し、無視を決め込んでいる。だが、それらは同じ資本主義への憤りを根にしていて、実現した行動形式が違うにすぎない。

○コミュニケーションの理論

1 客観的世界 真理性の妥当要求 これは、事実であるか?
2 社会的世界 正統性の妥当要求 これは、人として許されるか?
3 個人の内部世界 誠実性の妥当要求 これは、あなたの真意で言っているのか?

3は、最も難しい。
というよりも、現代で完全に求めることは、酷なのではなかろうか?

1 認知的・道具的な合理性
2 道徳的に実践的な合理性
3 美的に実践的な合理性

戦後ドイツには伝統の価値を重視する、保守主義の系統が綿々とある。ガダマーが最も著名であるが、日本ではほとんど知られていない。ヨアヒム・リッターやレオ・シュトラウスの「新アリストテレス派」は80年代にハーバーマスと論争した。

2013年05月08日

『江戸思想史講義』子安宣邦(つづき)

「この唐突な、飛躍をともなった理念の提示は、性理学(朱子学)の同一的な思惟と言語の外側に出た仁斎古義学がもたざるをえない言語的特質である。」(p340、第四章注6)

朱子学は一つの哲学的体系である。体系に則れば、条理を立てた説明はできる。しかし、論語の古代テキストを後世の説明抜きに読む、という古義学の立場に立てば、論語の古代漢文には体系など(予感はできても)存在しないことを認めずにはいられない。だから、飛躍によって語るしかない。どうとでも読めるし、どう読んでもよい論語の誕生である。渋沢栄一氏も、吉川幸次郎氏も、山本七平氏も、貝塚茂樹氏も、この地平に立ってめいめいに読んでいる。

『江戸思想史講義』子安宣邦

故に名なるものは教への存する所にして、君子これを慎む。孔子曰く、『名正しからざれば則ち順ならず」と。(徂徠、『弁名』)

上の子路篇三の「名」を、徂徠は名の定義として扱っている。通常のこの条の「名」は名分、すなわち君臣の秩序のことを言っていると解釈される。だがしかし、そんなことにとどまるのであろうか?むしろ、徂徠の解釈のとおり、これは「名」の定義を明らかにする、という意味ではないか。すなわち、後世の荀子が形名篇で漢字キーワードの定義を行った作業と同じことを孔子は言わんとしていたのではないか。漢字は一文字一文字が意味を持つ表意文字であり、西洋語や日本語のように語に解釈から解釈を連ねて意味を正していくことが、本来的に困難である。だから、文字が提出されれば各人がめいめい違う解釈をすることが、容易に起こってしまう。孔子は、政治家として法令・命令の用語を厳密に定義することによって行政のあいまいさに終止符を打ち、それを通じて国力を増大したい、と言ったのではないか。そのことの重要性が子路には分からず、迂遠なことだと思わせたのでなかろうか。律令制度が整備された後世の視点から見るから、「名」を名分だなどという解釈が当り前のように支配するのである。

「孔子の『天命を知る』の言によって、己の人生に運命として負託された課題を深く省みる言葉を思い入れ的に語ったりするのは、まさしくそれは〈人間が主題化された時代〉にあるものの解釈であるだろう。しかしその〈人間の時代〉とは、むしろ、人間孔子を『論語』テクストの背後にとらえるような読み手の出現とともに成立するというべきだろう。」(p116-117)
子安氏はこのくだりの注にフーコーを置く。そして脱構築という言葉を多用する。フランス現代思想は、歴史や文化の意義を重視するドイツ的思考態度に対するフランス側からの違和感(あるいは圧迫感)から、歴史などない、重視すべき文化などない、という価値相対主義の刃による異議申し立てであったといえはしないだろうか。その態度が、冷戦構造の下政治的なオルタナティブがありえず、しかし経済だけは世界一繁栄していたという戦後日本の与えられた情況にマッチしたと総括できないだろうか。いうまでもなく、この戦後的状況は、冷戦の終了によって潜在的に揺らぎ、そして佐藤優氏の言う「新しい帝国主義時代」の到来によって、完全に砕け散ってしまった。今や、前の時代の脱構築をそのままで貫徹するとすれば、日本という場が侵略解体されても平然としているべきであろう。これは、すでに庶民レベルで違和感がある。違う思想的立場が必要ではないか。

『大学という病』竹内洋

「君たちを憎んだりはしない。けいべつするだけだ。」と言い切る丸山教授。「あんたのような教授を追い出すために封鎖したんだ」とやり返すヘルメット学生。「軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ・という丸山教授たちを他の教官がかかえるようにして学生たちの群れから引き離した。(p245-246.毎日新聞昭和43年12月24日)

戦後日本、生活の近代化が戦前以上に進み、人と人の関係が互酬関係(贈る-負い目に感じる)から貨幣関係(金を払う-対価としてサービスを受け取る)に容赦なく変化していった。教える者と教わる者との関係から、人格関係が失せていった。丸山教授が戦前時代の大学の醜態を実体験したところから望み、前近代的残滓を一掃すべく日本社会を叱咤してやまなかった日本社会の近代化は、戦後社会への資本主義の徹底によって、実は成し遂げられていた。ただし、その結果は丸山教授に悔し涙を流させるほどの、人と人との関係の貨幣関係への変化であった。

「こうした中でもともと認識の明晰化の手段であったはずの方法や技法の洗練への志向が、知的大衆や他の学会からの侵犯を許さないための『自己防衛』や学会内部の『知の支配』の手段のようになってしまうという倒錯もないとはいえない。」(p275)

「マルクス主義はイギリスの古典経済学、ドイツの古典哲学、フランスの社会主義を総合したものだとして説かれた(筒井清忠『日本型「教養」の運命』)。」(p35)

竹内氏の戦前帝国大学の記述を読むと、森嶋通夫氏の戦前エリートと戦後世代との断絶という風景が、にわかに揺らいでくる。戦前の帝大生は確かに戦後よりもずっと貴重な存在ではあったが、戦前の帝大の講義風景は戦後と何ら変わらずお粗末そのものであった。とても、エリートを育てる教育ではない。

戦前も戦後も、エリートとしての教養知識は、大学講義の外から吸収していたのではないか。サークルとかインフォーマルな仲間内での集まりで、最新知識を吸収して論議していたのであろう。ならば、それは80年代末の大学と代わらない。

だとすると、エリートの質の低下は、森嶋氏の言い分とは違って、教育制度とは違ったところに見出せるのでないか、と仮に考えてみよう。

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2013年05月09日

『トランスクリティーク』柄谷行人

私は称賛するため、あるいは称賛しうるもののためにしか書く気がしない。本書において、私はカントやマルクスについてちっぽけな粗捜しなど一切しなかった。あたうかぎり彼らを『可能性の中心』において読もうとした。しかし、実は、ある意味でこれ以上に彼らを批判した本もないと思っている。」(序文、p17)

カント『判断力批判』における一般的(general)規則と普遍的(universal)規則。(p63)
一般的規則は、文化・趣味を共有するサークルの間で相互に評価される規則である。だが普遍的規則は異文化・異なる趣味の者においても、原則として通用しなければいけない。
礼儀作法は、形式として普遍的規則たりえると、私は思う。しかし、具体的な日本の礼儀作法は、日本愛好家の心を動かすことができるかもしれないが、必ずしもそう期待できない。例えば、小田は中国と韓国の礼儀作法に、全く美しさを感じない。

「この点に注目したハンナ・アーレントは、『判断力批判』を政治学の原理として読もうとしたし、、、また、リオタールは『メタ言語の設定なしでの諸言語ゲーム間の調停』を見ようとした。」(p67-68)

アーレントおよびリオタールは、複数の共通感覚が支配的感覚の暴力なしで合意に達する場を社会の理想として描いた。これは、日本のリベラリストたちの主張と同じである。
佐藤優氏は、国家が提供するナショナリズムから距離を置くためには、自らが生まれ育った社会の共通感覚に身を浸して互酬性を堅持するべきことを説いている。

『トランスクリティーク』柄谷行人(つづき)

「たとえば、普遍的な道徳法則によって生きる者は、現実には、悲惨な目に遭うだろう。人間の不死と神の審判がないかぎり、それは不条理に終わるほかない。だから、カントはそのような『信』を、統整的理念としては認める。ただそれを理論的に証明するような試み(形而上学)を拒絶する。」(p81)
たとえばハーバーマス氏は、モダニズムの魅力を統整的理念として信じているから、進歩主義者の立場を取り続けることができる。
柄谷氏は自分で唯物論者と言っているが、資本-ネーション-ステイトの輪を乗り越える革命のために統整的理念=普遍宗教が必要だと結論づけずにはいられない。アンビヴァレントである。

「『教える-学ぶ』という非対称的な関係が、コミュニケーションの基礎的事態である。」(p105)
国家-資本-ネーションの「交換関係」もコミュニケーション論として捉えることができる(佐藤優)。
教える-学ぶの関係には、常に常に命がけの飛躍がある。
比較的スムーズに交換関係が受け取られる方向に、社会はややもすれば流れるであろう。それは、スムーズに「学ぶ」をしない側とのコンフリクションを生む。日本の在日外国人、沖縄。韓国の在韓外国人、僑胞、脱北者。中国の非漢民族、宗教。

「スムとは、そうしたシステムの間に『在る』ことである。哲学において隠蔽されるのは、ハイデガーがいうような存在者と存在の差異ではなくて、そのような超越論的な『差異』あるいは『間』なのであり、ハイデガー自身がそれを隠蔽したのである。」(p140)
場所が、思想を作る。今ここにあることが自明でない立場にいると、思想の構造が見えてくるといえようか。

『トランスクリティーク』柄谷行人(つづき2)

「われわれが先取りすることができないような他者とは、未来の他者である。」(p143)

思想は、未来の、現在の前提が崩れた後の時代においてまで、射程を捉えておかなければ思想ではない。ゆえに縦横家は、思想ではない。

「運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的)なものであるかのように受け入れるということにほかならない。」(p177)

朱子のいう「天命」と仁斎のいう「天命」の違い。前者は、事物の客観法則としてあり、人間は主体的に、間違うことなく、それを辿るべきである。後者は、個々人の選択の上にある超越的な何ものかであり、甘んじて受け入れて怨まない運命である。

『世界公民的見地における一般史の構想』カント

(岩波文庫で読む)

「およそ被造物に内具するいっさいの自然的素質は、いつかはそれぞれの目的に適合しつつ、あますところなく開展するように予め定められている。」(第一命題)

柄谷氏は、この命題を信ずるものである。(人類は結局進歩する。)
佐藤氏は、この命題を信じていないようである。(人類の歴史は同じことを繰り返している。)しかし、佐藤氏はシニシズムではないようだ。今ここに生を受けたことに意味を見出し、出来る限りのことを行うという倫理的態度。

非社交的社交性が、「道徳的善悪を単純に区別する粗大な自然的素質を、時と共に一定の実践的原理に転化し、また最初は感性的強制によって結成せられた社会を、ついには道徳的全体に転化しうるような思想を形成する端初となすのである。」(第四命題)

柄谷氏のテーゼに従うならば、非社交的社交性が共同体の互酬の枠から解放されるのは、世界-経済においてである。そして、資本がオートポイエーシスとして自律的に増殖し、共同体を解体し、非社交的社交性を世界的に解放するのは、産業資本主義時代以降である。このとき、「感性的強制」に縛られた人間は大量に解放される。「道徳的全体に転化しうる思想」が起こる自然的条件ができあがっているのだろうか。

「それだから外的な法律に保護されている自由が、反抗を許さぬ権力と、およそ可能な限り最大の程度に結びついているような社会、すなわちあくまで公正な公民的体制こそ、自然が人類に課した最高の課題なのである。」(第五命題)

すなわち、世界共和国である。

正しく統治する政府の実現に向けて必要なのは、正しい認識、豊富な経験、善意思。「またいつか一致しえるにしても、それはけっきょく無駄骨折に終わった試みを何遍か重ねたうえのことであろう。」(第六命題)
失敗を繰り返し、悲惨を通り抜けて、反省の後に進んでいく人類。宇宙人から見て地球人は評価されるだろうか?とまで言うカントの遠大な構想。

「世界は、最高の智慧が展示される大舞台である、そして人類の歴史の成就を旨とする自然の目的は、この大舞台において特に重要な部分を占めるはずである。」(第九命題)

カントですら、このことは人類史への期待である。必ずそうなる、とは言い切れない。

2013年05月10日

『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー

「もし国家がないならば、その境界が民族の範囲と一致するか否かを訊ねることは明らかに不可能である。」(p7)
国家は、ナショナリズムの必要条件であることが分かる。
そして、産業社会では国家は避けられない。
「産業社会は非常に巨大であり、社会が慣れ親しんできた(あるいは慣習としたいと熱烈に思っているような)生活水準を維持するためには、信じがたいほど複雑で全面的な分業と協働とに依拠しなければならない。そうした協働のあるものは、順調な場合には、自律的で中央の強制を必要としないかもしれない。しかし、協働のすべてがそのように永続的に展開し、いかなる強制や統制がなくとも存続しうるというのは、人の軽信性にあまりにもつけこんだ考えである。」(p9)
産業社会は、精緻な国家システムを必要とする。裁判所。警察。消防署。市役所。法務局。税務署。年金制度。まだまだ増える。これらが国家なのであり、産業社会の市民生活は、これらを前提としている。
ゲルナーは、このことを言っているはずである。

○農耕社会における文化
「祭儀の言語は俗語とはまるで異なるものとなる傾向が大変強い。」(p19)
サンスクリット、コプト、ラテン各語。漢文も、中華帝国においては実質上そうであった。誰も現実生活では使わない人口言語。しかし、春秋時代にもそうであったのか?

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『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー(つづき)

「農耕世界や部族世界の閉ざされた地域共同体においては、コミュニケーションが問題となる場合、コンテクスト、調子、仕草、パーソナリティ、それに状況がすべてであった。」(p55)
これは、狭い村落共同体である。だがこれで、中国や日本で広域商業ができたであろうか?
商人は村落の有力者とコネクションを持ち、物資を調達する。それを遠隔地に持ち込み、現地の有力者に高額で販売する。これによって、差額を得る。このような世界であろうか。しかし、これでは信用経済は望むことはできない。為替が発生した室町時代以降の日本では、リンガフランカが成立し、加えていわば共通の信仰を持つことが前提となっていたのではないか。

劉邦が現れた沛は楚の地方都市にすぎなかったが、住民は魏・斉と相当に交流があった。蕭何は町の吏にすぎなかったが、秦帝国の相国に着くや否や律令を理解し、貨幣政策を成功裏に実施した。これができたのは、地方都市といえども高度な知識を獲得できるほどに、当時は天下共通のコミュニケーションが成立していたのではなかろうか。

「族外社会化、つまり教育自体が今や事実上普遍的規範となる。」
「この教育基盤の整備は、あらゆる組織の中で最大のものである国家以外のどんな組織にとっても、あまりに巨大にコストがかかりすぎる。、、、文化は今や、共有された必要なメディア、活力源、おそらく最小限の共有された空気であり、その空気の中でだけ社会の成員は呼吸し、生きながらえ、生産する。」(p63-64)

共同体の外で平均的な教育が行われるのが、産業社会の要請である。その教育を行うことができるのは、国家が制定する学校制度の枠内だけである。学習塾は、子供たちに独自の価値を教えはしない。ただ、国が制定した受験科目の合格法を伝授するだけである。
今の日本は、産業社会が非常に進んでいる社会であるといえる。ゆえに家庭の教育機能がほぼ消滅して、族外教育が箸の上げ下ろしまでの教育全部を担わずにはいられなくなっている。その教師が、教える-学ぶ関係を子供に設定する場を、きわめて作りづらくなっている。保守派の教育改革とは、家父長的国家の再生が頂点にあって、その権威の下請けとして教師の権威を再生する、というビジョンであるように見える。だが、果たしてこれは機能するだろうか?
均質な族外教育が産業社会の必然的要請であるから、異なった価値観による国家に頼らない教育が、国家と産業社会にとって目障りであることになる。だが、このような多様性を包含して、なおかつ分裂しない社会を目指すことが、強い社会のために必要なのではなかろうか。

「民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。」(p95)

「文化的差異への尊敬が礼儀作法のまさに本質なのである。」(p107)
孔子の時代は、社会が流動化して礼儀が崩れようとしていた。孔子は、それを廃棄せよというイエスキリストの教えとは逆を行った。君子として自覚を持ち、礼儀をあえて行え。美しい文化を救出せよ、と。

「この社会の中では下位共同体が部分的に侵食され、それらの精神的権威がひどく弱められているにもかかわらず、しかし、人々はあらゆる仕方で相違を待ち続ける。人々は、背が高いか低いかによって、肥っているか痩せているかによって、色が濃いか薄いかによって、またその他多くの仕方によって類別されるからである。」(p109)
産業資本主義は、産業社会を前提とする。産業社会では産業資本の要請によって村落共同体は解体され、均質な個人が育成される。しかしながら、産業資本主義は差異がなければ利潤を得ることができず、不断に差異を捜し求める。産業社会の人間もまた、差異を捜し求めるというべきか。金銭的利益(学歴、技能、先読みの情報)、地位的利益(学歴、出自)、心理的利益(排斥するべき外国人、ホームレス、生活保護者)。

『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー(つづき2)

他の高文化がこのような変換(農耕時代的素朴信仰から産業社会的な純化された・第三者の吟味に耐える信仰への変換)を行う場合には、それらの従来の競技的支柱や土台を捨て去るという代価を支払う必要がある。それらが長い間携えてきた教義の大半は、、、認識論哲学の時代にはあまりにも非合理的で擁護しがたいものであるため、かつては利点であったのに今では厄介ものになってします。それらは喜び勇んで脱ぎ捨てられていくか、過去との結びつきや時代を越えた共同体の持続性を示す「象徴的な」記念物に変えられてしまい、それらの名ばかりの教義内容は婉曲的に無視されのである。(p135)

けれども、イスラームの場合はそうではない。、、、一方の顔は宗教的にも社会的にも多元的な農村の民衆や集団向けのものであり、他方の顔は宗教的により潔癖かつ学究的で個人主義的で読み書き能力のある都市の学者向けのものであった。(同)

教義が優雅かつ単純、簡素で、厳格に唯一神教的であり、衒学的で目障りな装飾物を多く持たないこと、これらのことは、イスラームが、教義上もっと豪華な信仰よりも上手に近代世界で生き延びていく手助けをした。けれども、もしそうであるならば、儒教のような農耕社会イデオロギーの方がもっとうまく生き延びることができたはずではないのかという疑問が当然出るであろう。儒教のような信仰体系の方が道徳の規則や秩序とヒエラルヒーとの順守にもっとその中心を置いていたし、神学的あるいは宇宙論的教義にはもっと少ない関心しか示さなかったからである。しかし、おそらくは厳格かつ強固な、断固たる唯一神論の方が、道徳への関心と結びついた教義への無関心よりも近代世界にうまく適応できるのであろう。農耕時代の、読み書き能力を基礎とする政治体の道徳や政治倫理は、近代的な好みからすれば少し尊大で不平等主義的すぎるのである。このことが、儒教が近代社会で、少なくとも同じ名称とやり方とで存続するのを困難にさせたのであろう。(p136)

イスラムは、王も富豪も庶民も本質的には平等である、という教義である。それは、わが浄土教と同じである。イスラムや浄土教は、多様な職業やバックグラウンドの人間を無条件に招くことができる強みがある。
儒学は、君子のための教義である。君子は、礼儀作法を自覚してわきまえて目的のために尽くす、エリートのための教義である。ゆえに、庶民には関係がない。朱子学は、まさにそうである。
伊藤仁斎は、儒学のプロテスタンティズムと言えないだろうか。彼の作業は、儒学をエリートのための教義から解放して、人間ならば誰でも見習うべき教義として再発見した。仁斎の革新の先に、石門心学がある。そして、日本儒学が多様で世俗的な読み方を明治以降に開いたのは、仁斎の革新から始まったのではないだろうか。中国・朝鮮では、ついにそのような読み方をする革新が起こらなかった。だから、未だに朱子学しか手元になく、古びた衒学を文化遺産として骨董品のように称揚する外なくなっている。これでは、儒学の未来はないだろう。儒学は、仁斎の革新に立ち返り、仁斎の革新から未来を見出すべきではないだろうか?

「この、非常に一般的な意味で、そして、何よりも消極的な意味で、カントとナショナリストたちとを、おそらく同じ部類に入れることができる。いずれもが、求められている意味においては、伝統を尊重する人々ではない(というよりもむしろ、ナショナリズムが伝統に対して払う敬意は、ご都合主義的に選択的である)。両者は、この広い意味において、『合理主義者』であり、正統性の根拠を、単に在るものを超える何かに求めようとしているのである。」(p223)
本当の伝統主義者は、伝統を合理的に、選択的に、アレンジなどしない。それは、低文化を高文化に作り変える操作である。伝統の不合理不条理をそのままに受け入れるのが、真の伝統主義者である。しかしそれは、近代人にとって耐え難く、そして説得力を持ち得ない。
ゆえに、必然的に合理主義であるより他はない。個別の文化を打ち捨ててコスモポリタンな近代人を理想とするカント的道を取るか、恣意的に構成された固有の高文化を民族固有の合理的文化として称揚するナショナリストとなるか。
だが、今やコスモポリタンもナショナリストも、挫折しているように見える。コスモポリタニズムは、もはや近代主義華やかなりし時代のように、想像力を喚起しない。しかしナショナリズムは、先進国民にとって周回遅れの思想に見える。その先が必要だ。イスラムやカトリックは、確かに第3の道の一つなのかもしれない。

2013年05月13日

『はじめてのバルト』J.R.フランク

○シュライエルマッハー
『宗教論-宗教蔑視者中の教養人に寄せる講演』(1799)
「キリスト教は普遍的宗教衝動がキリスト教の伝統に固有の特定の言語および象徴を介して表現されたものである。」(p24)

キリスト教共同体-信仰を同じくする団体。共同体への帰属意識と、超理性的な存在への信仰とが相補う。

「自由主義者は宗教や歴史、文化、そして倫理などについて確信を持って語ることができる。しかし彼らの神学的立場は現体制に疑問を投げかけ、挑戦するような仕方で神について語るために必要な力を持っていない。そのためバルトにとって自由主義神学の神は、社会が独自に定めtら価値観や規範を認証し保障する役目を果たすだけの存在であるように見えた。そのような考え方は神と人間とが本質的に共通の世界に、比較的安定した関係を保って存在するものと見なしているになる。自由主義的な前提に立つ限り、神が特定の文化的状況を構成する価値観や理想、野心に対立すると考えることは難しい。」(p44)

『国家と神とマルクス』佐藤優

「それは、死ぬ前に自分の人生を振り返ることを考えたんです。私は私なりに日本の国のために仕事をした、状況によっては命を失ってもいい覚悟でやってきた。それを一回くらい政争の中のくだらない足の引き合いや外務官僚の自己保身に巻き込まれただけで恨みを持って、今度は反体制に転換したとする。じゃあ、その前半の私の人生はまったく意味のない人生だったんだろうか、そうじゃないはずだということで、反体制の論理は私の趣味には合わないと思ったんです。」(p36)

佐藤氏は、
人生倫理-キリスト教神学
世界把握ーマルクス
を武器としている。
あと、
日本観-神皇正統記
であろうか?
佐藤氏は、靖国神社で英霊を感じて手を合わせるという。これは、信仰的態度である。他者が肯定もできないし、批判しても意味がない。

「私が本稿で予測した通り、堀江氏は市場原理主義者であるとともに共和制論者である。」(p69)
佐藤氏は、堀江氏の逮捕劇は、彼が選挙中で天皇制廃止・大統領共和制を示唆したところにあったという。大統領共和制は、彼の本来的持論である市場原理主義と対である。要は、日本という共同体など何ら特殊的でなく、外国と取替えができる場であり、そうするべきだという信念なのである。日本の生理がこれを危険と見て、一掃したのであった。

佐藤氏は、神皇正統記や太平記が禁圧されずに流布を許されたところに、日本国家が持つ強さを見ていると見える。幕末、佐幕側の敗者たちがわずか数年のうちに許されて日本国家に吸収された、構造も同じであるといえよう。戦前のマルクシストは官憲から徹底的に追い詰められたが、彼らはかえって意気軒昂として、世界レベルで見ても高水準の研究を行った。日本の研究的知性は、1930年代に一挙に上昇し、その余韻をもって昭和時代高水準であり、平成時代になってようやく衰えているように見える。これを、国家があえて研究者たちを追い込んだことによって発奮させた、日本国家理性の巧智であったと言うのはいいすぎであろうか?

2013年05月14日

『はじめてのバルト』J.R.フランク(つづき)

自由主義は宗教体験に関心を集中したために、聖書の性格および機能について革新的な提案をしていた。聖書は人間的な書物とされながら、しかもなお初代の信仰共同体における神との出会いを証言するものとして唯一無比のものであるとされた。これらの体験が書き記されたのははるか昔のことで、古代文化の思惟形式に従い、その用語を用いて書かれた。しかし今日でも多種多様な社会に対して語りかけている。それは聖書が万人に場所と文化を超えて人間に共通のものであり続けているからである。(p48-49)

この考えに従えば、結局のところ、聖書と聖書のメッセージを飼い馴らし手懐ける事になるだけでなく、聖書が証する神をも飼い馴らし手懐けることになるとバルトは考えるようになった。(p49)

上の自由主義神学は、20世紀の日本人論語解釈者の視線である。
日本人は伊藤仁斎以降、朱子の解釈を永遠無謬の聖典であるとみなす、李氏朝鮮由来の解釈を放棄した。

仁斎-時代の現実に引き付けて論孟を「いま、ここの倫理書」として読み解く-自由主義神学
徂徠-朱子学の解釈を近代人の解釈として斥け、古代テキストそのものに記された古代人の理解をそのままに辿ろうとした、ゆえに倫理は捨てられ、統治術だけが残った-自由主義を批判する視線はバルトと共通でありながら、両者の結論は全く違う。

ヘーゲル、デリダ-時間の推移によって、差異があることを認める。ただヘーゲルはそれを総合しようとして、デリダは総合は不遜であると言う。
日本の思想は、空間的配置によって、同時間に差異があることを認める思想ではないか?敵と味方とが対立していがみ合いながら、奇妙にも連帯して認め合っている。尊氏と正成。

『ヘーゲルの歴史意識』長谷川宏

すでに『イエスの生涯』が、聖書に拠った純粋歴史記述という体裁のもとに、イエスのことばや行為を一貫して道徳主義的に解釈しようとするもの、見かたをかえていえば、聖書の記述のなかから道徳宗教の唱道者にふさわしい箇所だけを選び抜いて編集したものにほかならなかったが、、(p55)

初期ヘーゲルは、イエスを模範的聖人として造形しようとしていた。

ヘーゲルは、イエスの道徳宗教が実定的なキリスト教へと変質していく要因として、十二使徒の非主体性という心理的要因と(孔子教団のとりわけ若い世代の孔子を超人として崇める非主体性と)、初期キリスト教団の緊密な共同性がキリスト教の社会的普及に伴って形骸化されていくという組織的要因と(諸子百家時代の論争に生き残るという要請によりかたくなにドグマを強弁して教団の思想統制をはかる孟子のスタイルが強化されていったという組織的要因と)、キリスト教を受け入れるさいのローマ帝国の頽廃状況(儒教を受け入れるさいの漢帝国が要求した鎮護国家・国権強化というテーマに媚びた思想頽廃状況)という社会的要因の三つをかぞえあげていた。(p58、カッコ内は挿入)

「ヘーゲルは自己の近代的な国家観が現実のドイツ国家の近代化にかさなりあうという幸福な時期をたしかにもつことができたのである。」(p93)

自らが生きている時代に自らの思想を依存させて、希望的観測を行うことは果たして思想家としてよいことであるか。

「だが、知識人たちの異質の文化的伝統にたいする憧憬は、民衆の文化意識をしりぞけるようにして成立することがほとんどで、そこからは、時代全体がある異質の伝統文化を憧憬するといった気風は、やはりうまれにくいといわねばならないだろう。それに外来文化にたいする知的な劣等感が憧憬にぬきがたくしみわたっているかぎりでは、憧憬もゆったりとすなおでふくよかなものになりにくく、どこか狭量でケン介な面を捨てきれない。思うに。憧憬と劣等意識は、表面的には対をなす概念のようにも見えるけれども、そのじつ、たがいに相容れない概念なのかもしれない。」(p153-154)

現代でも、西洋への憧憬は、劣等感と表裏一体のままである。すなおによしとすることができない。
幕末への憧憬を持つ人が、結構いる。その憧憬には、たぶん劣等感はない。しかしながら体系がないので、竜馬や西郷のどんな思想が好きなのか、と聞かれたら、支離滅裂な意見が百出するより他はなく、そしてそれを聞いてもちっとも同感できないであろう。
長谷川氏のこの書は、1974年に書かれた。
この時代は宮崎、貝塚、吉川など中国研究の大家たちが、まだ健在な時代であった。彼らの中国への憧憬は、異文化への憧憬の視点に近く、ゆえに江戸時代の儒者と連続しているように思われる。偉大な文明で、そして日本とは明らかに違う世界。しかしながら、彼らが開拓した新聞読みの論語の世界からは、日本人にも共通することが多い東アジア知識人階層のインターナショナルな典型像が表れ出たのではないだろうか?現在、中国はすでに憧憬の世界でも憐憫の世界でもなく、物質主義が蔓延した帝国主義国家として現れている。中国への夢がすっかり覚めた現在、論語はひるがえって異世界の書としてではなくて、日本人の書として読むことができる段階に来ていないだろうか?

2013年05月15日

『近世日本政治思想における「自然」と「作為」』丸山真男

(岩波、丸山真男集で読む)

「自然法的基礎づけは社会への安定化へと作用すると共に、社会のある程度の安定性を前提としているのである。その場合(朱子学の場合の如く)自然法が即自然法則とされようと、仁斎の様にその規範性が意識されていようと変わりはない。」(p18)

1941年の著作である。そこには、目の前の秩序が日本の自然的秩序(のはず)である、と言わんとする国粋主義イデオロギーへの搦め手からの対決姿勢が見て取れる。この社会は自然的秩序なのではなく人為的な作為であり、合理的に変革されるべきである。


「徳川封建社会の成立と共に、朱子学がいわば代表的な政治的=社会的思惟様式たる地位を占めた所以は、そこに含まれた自然的秩序観が勃興期封建社会に適合したばかりでなく、それがとくに勃興期封建社会に適合したことに由来するのである。身分関係が整然と確立し、すべての生活様式がその線に沿って類型化された点で世界史上にも『模範的』な我国近世封建社会の下に於いて、社会関係を自然必然的な所与と見る意識形態がいかに普遍化する素地をもっているかは容易に推測しうる。」(p39)

しかしむしろ、そのような模範的な封建社会を自然的有機物と見る意識が、どうしてわずか1世紀足らずで崩壊していったのかということの方が問題ではなかろうか。中国でも、宋代、明代後期、清代中期は商工業の隆盛時代であり、士大夫-小人の身分関係は金銭の力により相対化されていったのではないだろうか。だが彼方では1000年近く崩壊せず、日本ではわずか100年で崩壊した。これは、日本にとって朱子学があくまでの輸入の学問にすぎず、日本の真実を正確に描写していない、ゆえに適宜改変して解釈を変えてよい、という日本の特異な文化受容の態度に由来するのではないか。朝鮮では朱子学が500年間動揺せず存続し、日本では朱子学者であるはずの山崎闇斎が垂加神道という朱子学から外れた挟雑物をあっさり創始してしまうのである。

(追加)
小倉紀蔵「朱子学化する日本近代」は丸山氏の主張を批判して、日本江戸時代は朱子学の原理が十分に社会的に浸透していなかった、それが浸透したのはむしろイデオロギーとしては儒学を捨てた明治以降の近代日本であった、と反論する。朱子学の要点である個の自由と自ら善をなす主体性の論理は、近代日本がテイクオフするときに市民(=臣民)を創生するときにこそ、原理として日本人の血肉となったと小倉氏は主張するのである。
では、近代日本と中国朝鮮は同じく朱子学を原理としたにも関わらず、どうして差がついたのか?小倉氏の説明は、この点で不十分であるように見える。
私は、ここで柄谷氏の指摘を援用するべきであると思う。
すなわち中国・朝鮮は世界史の「世界-帝国」段階における中心および周辺である。中心と周辺は収奪・再分配システムBが強固に結成された領域であり、社会的に安定である。一方日本は「世界-帝国」の亜周辺に属し、中心から遠かったゆえに収奪・再分配システムBが完全に輸入されなかった。それが互酬原理Aによる武士共同体を江戸時代に残存させ、かたや中央権力が統制できないシステムの隙間が多く発生して、商品経済が勃興した。柄谷氏の視点を借りれば西洋の絶対王政および日本の明治維新国家は亜周辺地域が「世界-帝国」の収奪・再分配システムを遅ればせながら採用して中央集権国家を成立させた時期と解釈できる。このときに、中央集権国家に適合的な朱子学原理が、当人たちの気づかないままに本格的に浸透したという小倉氏の主張は、妥当性を持つであろう。しかしながら西洋の絶対王政・日本の明治維新国家が「世界-帝国」段階の帝国と違っている点は、後者が支配する社会が互酬原理Aによる農村社会であるのに対して、前者が支配する社会が支配する社会が商品交換Cが貫徹する市民社会であるところにあった。商品交換Cは産業資本のオートポイエーシスによって自立的拡大再生産運動を起こして共同体を連続的に破壊し続け、それを支配する国家は法・公教育・貨幣・再分配によって商品経済Cが運動する条件を下支えする。こうして、資本-国家-ネーションの環が近代西洋と近代日本で完成して、「世界-帝国」段階での中心(中国、イスラムなど)、周辺(朝鮮、バルカン諸国など)では成し得なかった経済の自律的拡大を成し遂げることとなった。


「(中世政治家が神の法によって与えられた、政治的)義務を冒し、この職分を逸脱した支配は正統性を喪失して単なる暴力と化する。ここから中世思想は暴君に対する人民の反抗権を、いなある場合には進んで支配者の殺害権をも引き出したのである。」(p44)
Gierke, "Genossenschaftsrecht"を参照。

この指摘は、面白い。孔子・孟子が君主を糾弾するのは、自然法に照らし合わせたときに見える社会の一職業としての君主の職分を逸脱したときではなかろうか。とりわけ孔子は、自然法として礼儀を見る視点があったため、礼儀からの逸脱を糾弾することに急であった。
戦国後期になると自然法的視点が消滅し、社会は君主の恣意によっていかようにも目的合理的に再編成できる素材として表れるようになった。荀子はそこから人間の究極理想である「道」に従って礼を制定し、社会を再編成せよと君主に説いた。韓非子はさらに一歩進んで、究極理想までを不問に処して、ただひたすら国家強化を目標に据えてその手段として法で社会を強力に再編成せよ、と君主に薦めた。

〈問題〉徂徠は、江戸期封建秩序を、家康が時代に応じて制定した人工物と見ていたのか。時代が変化すれば、別の体制がふさわしいと見ていたのであろうか。

「朱子学はそこに内在する於プティ見スティックな思惟方法によって、前述の如く(第一章)勃興期乃至安定期に照応した思想体系であった。」(p90)

政治体制、家庭秩序は本来的には理に従う。だから、これをよく整えれば家も国も栄えるのである。ドラスティックな政治改革を必要としない。豪腕の君主によるイニシアティブは、朱子学では斥けられている。朱子学の理想の君主像は、道徳にひたすら従う、受動的な君主である。これは、孔子孟子が当世の君主たちの功績を積極的に認めなかった視点と平仄を合わせている。

『〈近代の超克〉論』広松渉

岩波、広松渉著作集で読む。

「戦後の”常識”として、戦時中には資本主義批判はタブーであったと言われるとき、それは「科学的社会主義」の立場からする資本主義批判を指すものでなければならない。しかるに、戦後世代の常識では、いつのまにか戦時中の日本には自称”資本主義批判”ですら、一切が圧殺されていたかのごとき既成観念が根付いており、昭和思想史に関する”事実”誤認が定着してしまっている。こういう常識に安住していたのでは、いわゆる「日本的ファシズム思想」に対して無防備となり、一旦時潮が変われば、戦前・戦時の「近代超克論」の変種や粧いを変えたファシズムに易々と罹患しかねない。」(p68)

このくだりは、私にとって多少驚きである。
岸信介総理の来歴や、戦前右翼の主張、北一輝のイデオロギーの内容を知っていれば、戦前戦中の体制が反資本主義とはいわなくても少なくとも資本主義の弊害を除去しようとする修正資本主義を志向していたことは、容易に看破できる。このことが戦後の一般通念においては一方的に無視されていた、ということである。ファシズムは国家暴力による再分配を目指した運動であり、弱者に「やさしい」。この事実を、戦後の通念は意図的に無視していたのであった。

三木清『新日本の思想原理』『続編-協同主義の哲学的基礎』
昭和研究会の公式文書。
その中では、日中戦争を「支那の近代化」に必要な措置であり、それを東亜の統一の前提に置いて合理化している。東亜全体の近代化を通じた、反西洋ブロックの育成というビジョンを提出した。
もし中国が日本侵略を将来画策するとするならば、どのようなイデオロギーにて合理化するか。
中国は、日本その他の周辺諸国に対して、近代を輸出することはできない。ナポレオン・三木清式イデオロギーは不可能。
・中華思想ロマンティシズム--中華の版図は東アジアを組み込むのが文明的帰結である。同種・同文・同国家。(だが彼らは、あまり観念に酔いそうにない。)
・弱肉強食マキャベリズム--自国が勝つためには、隣国を併合することも許される。(だが、彼らはニヒリズムに親近感がありそうにない。)
可能性があるとしたら、グローバル資本主義に反対する何らかの世界的運動を自ら起こすか、あるいは便乗することであろうか。第二の文化大革命?

「昭和の初年には日米戦争の将来的不可避性ということが絶対確実な既定の事実として人々に認識されていた、、、日本の敗退を認めたがらない心情があった以上は、恒久世界平和を確立し、全世界の安寧と秩序を確保するためには日本が戦争に勝ち抜き、最終戦に勝ち残ることが絶対の要件として意識される。」(p119)
現代中国の庶民には、このような意識はない。ゆえに、かの国の軍隊は侵略を国民の支援のもとに行える状態にない。だから、自国防衛という大義名分をもっぱら振り回すのである。

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2013年05月16日

『〈近代の超克〉論』広松渉(つづき)

論者たちは「近代の超克」というモチーフがそもそも西洋出自のものであることを指摘し、斯様な西洋的概念を用いて西洋的近代の超克を説くことそれ自身がナンセンスであるかのように評する。だが「近代の超克」という課題がグローバルなものであるとすれば、すなわち、近代の超克ということが特殊西洋だけの課題ではなく世界史的な課題であるとすれば、問題の提起がどこで最初におこなわれたかということは副次的な事柄にすにない筈である。論者たちは、近代の超克は西洋に委ね、日本では全然別の事を専らとせよと説く心算であるのか。成程、論者たちは、日本はまだ克服さるべき近代をまだ実現しておらず、当面の課題は近代化の実現であると言いたいのかもしれない。しかし、世界史の時代に生きるわれわれにあっては、”西欧における近代の超克”と”近代化以前の地域における近代化の課題”とが、有機的に関連づけられた相でしか存立しえない道理ではないのか。現に、京都学派の世界史の哲学においては、支那その他東洋の近代化という課題と欧米や日本における近代の超克という課題がそれなりの仕方で結合されていた。」(p159-160)

講座派--日本はまだ近代化していない。
そこから、近代化=西洋化するのが課題であるという近代化派と、
日本の前近代的な独自性がユニークな資本主義を形成している、という前近代的要素肯定派に分かれる。
姜尚中氏などは、丸山真男の影響を受けて、明らかに近代化派である。

労農派--日本の現象は世界システムの中で考えるべきであり、近代化している・していないという視点で考えることは意味がない。

Non-indigenous Japanese にとって理想の日本像は、二通りある。一つは近代化路線であり、日本にアメリカ・西欧と同じ原理の国になってもらうことを願う。意地の悪い見方をすれば、彼らは周辺諸国がアメリカ・西欧的な意味で近代化に届いていないことを認めているので、日本に期待して要求しているのである。
もう一つは、その逆。日本はアメリカ・西欧の後追いなどする必要はない、今の(戦後日本の)段階で十分に寛容で住み良い国であり、この路線に何も引け目を感じることはない。もし日本を非難する外国があるならば、堂々と立ち向かうべきである。在日の方々には、あからさまにそれを表明する人もたまにいる。しかし、本音ではそう思っている人も、もっといるのかもしれない。

『「近代の超克」とは何か』子安宣邦

歴史検討部分は広松とほぼ重なっているように見られるので、最終章だけ読むことにする。

竹内好「方法としえのアジア」
溝口「方法としての中国」

「戦争を通じて超克されるべき近代とは、ほかならぬ戦争をする己れでもあることを、この超克論は終始隠蔽する。昭和戦前期の超克論は、まぎれもなく帝国主義国家として近代を達成している日本を隠蔽することの上に作られる論理である。」
「だが二一世紀の現代アジアにおいてこの思想戦jは成立するのか。ここで溝口の『方法としての中国』という超克論に戻っていえば、『中国の独自的近代』をいうことはただ現代国家中国を弁証する修辞をしか構成しないのではないか。それはすでに世界を包括する現代資本主義の論理がその肥大した病理をもって深く侵してしまっている現代中国の現状をただ隠蔽するだけではないのか。」(p248-249)

子安氏は、溝口氏のいう中国独自の歴史という主張が、戦前わが国が帝国主義戦争を隠蔽するために主張した日本の世界史的使命論を、対象を日本から中国に変えて焼きなおしているにすぎない、と批判している。他方、竹内好氏が中国の近代化を「本当の近代化」として見る視点は、それが帝国主義による抑圧の中から自由・平等の要求を内発的に起こした点にある。要は、竹内氏にとって中国である必要はみじんもないのであって、それがアフリカであろうがインドであろうが中南米であろうが、全て共通に抑圧された民衆が自発的に近代を求めようとした運動なのだ。だから、「方法としての中国」と言ったのである。

つまり、竹内好氏、そして竹内氏を肯定して溝口氏を批判する子安氏は、講座派である。現代中国に向けては、それが近代化の価値を閑却してグローバル資本主義の悲惨から目を背け、中国の独自性などとうそぶき帝国主義に傾斜する姿を、近代化を価値とする視点から批判することとなるであろう。

「私は戦争をしない国家としての戦後日本の自立こそ、わずかにこの抵抗線を引く資格をわれわれに与えるものだと答えたい。その非戦的国家への意志を、われわれは六〇年にアジアの自立的安全保障への意志として示したのである。」(p253)

こうして、子安氏が柄谷氏の図式化する資本-国家-ネーションの強固な環が動かす世界史の運動について、どれだけ洞察を持っておられるかはよく分からないものの、結論としては柄谷氏に近いところに落ち着く。日本は、前の戦争という誤りを反省した上で、非戦という進歩を世界とアジアに価値として提出しなければいけない。日本の独自的歴史も、中国の独自的歴史も、認めない。

佐藤優氏は、日本の独自的歴史も、中国の独自的歴史も、認める立場にある。ゆえに、ヘゲモニー国家が消失した二一世紀の現代は、複数の絶対が相打つ帝国主義の時代であることを認め、日本としては中国と賢明に対立するより他はないと言うのである。

普遍と共にある

《キリスト・イエスの下僕で、召されて使徒となったパウロ。》ここで語るのは、「自分自身の創造に熱中している天才ではなく」(チュンデルZuendel)、自分が受けた委託に縛られている使者である。」
(カール・バルト『ローマ書』吉村善夫訳、新教出版社、p35)

「有」の思想においては、普遍は神のもとにある。人間は、神の代理人として、神から委託を受けて自らを主張する。subject(臣)=subject(主体)。

日本人が「無」の思想に立っているとすれば(そして、立っているのであろう)、人間は、自分以外の、自分を取り巻く、つまりは「場」の一員として、自ら退くということか。普遍はこのばあい「場」である。空気を読む、というのはすなわち日本思想ということか。

『トランスクリティーク』柄谷行人-再読

ヒュームへの批判
コミュニズムという形而上学をいかに再建するか

カントの後に続いたのは、フィヒテ、シェリングのロマン主義。それらを批判する、というスタンスでヘーゲルのリアリズム。普遍性を目ざしたカントの視点は、その直後に特殊性への居直り思考によって立ち消えになった。

人間の意志を超えて人間を規制する、あるいは、人々を互いに分離させ且つ結合する或る「力」。(イントロダクション)=宗教であり、同じ力を持つものとして資本もそうである。

思わず力を持つと、認めずにはいられないもの。貨幣、互酬の他に何があるか。
国家とは、人間にとって本来よそよそしいものである。その国家に対して債務感を持つとは、どういうことか。国家は「想像の共同体」だからか。わが国の官僚たちは、国家のために真剣に尽くしているのか、そのような債務感を持たせるような国家であるか、現在の日本国は。少なくとも私は地方自治体の役人時代、自治体に尽くすという債務感が、どうしても起こらなかった。ゆえに、税金泥棒であった。

貨幣や信用の世界は、宗教と同じ原理である。産業資本主義社会は、信用によって成り立っている。ゆえに、経済変動によって破壊が起きる。前近代社会での交換様式は地域限定的で、安定している。しかし、これはユートピアではない。地域限定的で安定しているので、自然災害の暴力を受けると容易に生存が終了していまう。現代の高度な産業資本主義社会はすみずみまで商品経済が浸透しているので、地域を越えた信用に基づき、不安定である。しかしながら、自然災害がひとたび起きても、情報と物流が絶たれることがないために、すみやかにインフラが復旧してしまう。それを我々は前の震災で見た。前の震災は、産業資本主義社会のためにインフラ復旧ができたプラス面があり、しかし共同体が産業資本主義により破壊されているために地域の復興がさっぱり捗らないというマイナス面が見えているのだ。

最近の猪瀬都知事と橋下大阪市長の発言は、日本人の思考の中で「悟性」と「感性」との間に亀裂が生じていることの、病理学的兆候と言えはしないだろうか。カントによれば、「悟性」と「感性」との亀裂を埋め合わせるのは、想像力である。両政治家は、日本的特殊感性に寄りかかって想像力を働かせたロマンチシズムに傾いて発言を行ったと見られる(背景に政治的な仕掛けがあるのかもしれないが、それは見えないので置いておく。)
現状の世界のルールは、両政治家の「感性」に逆行的である。反逆者がルールを変更することを要求するのは、テロリズムである。テロリズムは力によって逆襲されることを、覚悟しなければならない。それでも断行した結果ルールが変更されるならば、それは革命と呼ばれるであろうが。

「ところで、共同体や国家は実在しても、また、ネーションを前提とした『インターナショナル』な機構が実在しても、『世界公民的社会』というものは実在しない、、、世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してでもそうすることである。」(p144)

小倉紀蔵氏は、日韓の関係を共同体ならぬ「共異体」であるべきだ、と言われる。
これはいっけん普遍を目指そうとする思想であるように見えるが、そうでない。単に、二つの感性の両方に共感を持っている存在であることを表明しただけであり、世界市民社会人ではなくて日韓ナショナリズムの表明である。悟性と感性のギャップを本質的に乗り越える提案ではない。私も両国がイギリスとフランスのような仲良くケンカする関係となることを希求するものであるが、そうなるためにはより普遍的な第三の視点(リベラルデモクラシーという価値の死守)による協同が起こり、そしておそらくさらなる外部からの圧力からのやむなき防衛的合従の契機(英仏間では、ドイツの圧力からの合従の時期に両国の関係は円満であった。だが冷戦時代においてはフランスはドイツをパートナーとして選び、英仏関係は親密とはいえなかった)が必要であろう。


マルクスが『経哲草稿』時代に類的本質を強調していた頃、彼の心中には人類共同体の甘い幻想があったのではなかろうか。じつは、その時代の彼の夢想していた人類共同体は、理想のドイツ共同体にすぎなかった。その理想がたとえドイツ人とユダヤ人とその他民族が参加した多様な共同体であったとしても、しょせんは特殊な共同体である。彼がフランスに移動してから後は、そのような甘い共同体の幻想に入りきらない外国社会を認めずにはいられなかったのではなかろうか?そのような外国までも視野に入れたコミュニズムは、個人の完全な自由から始まり、文化民族をカッコに入れた(忘れたのでは、ない)共同体でしかありえない。

「道徳は客観的に存在するかのように見える。しかし、そのような道徳はいわば共同体の道徳である。そこでは、道徳的規範は個々人に対して超越的である。もう一つの観点は、道徳を個人の幸福や利益から考える見方である。前者は合理論的で、後者は経験論的であるが、いずれも「他律的」である。カントはここでもそれらの「間」に立ち、道徳を道徳たらしめるものを超越論敵に問う。いいかえれば、彼は道徳的領域を、共同体の規則や個人の感情・利害を括弧に入れることによってとりだすのだ。」(p164)

儒教道徳は、現在の日本ではすでに共同体道徳ではない。個人の幸福や利益に役立つ、経験論的道徳である。受け止められ方としては、シュライエルマッハー的な、「われわれの伝統」として幸福をもたらす道徳としてであろう。バルト的な、「苦難の中での掟」として命じられる道徳として読まれることは、もはや難しい。というか、日本では儒教がそのように読まれたことは、一度としてない。

2013年05月17日

『トランスクリティーク』柄谷行人-再読(つづき)

日本の公民教育の問題は、民主主義が必ずしも最良無謬の制度ではない、ということをきちんと教えないことだ。それだと、ボナパルティズムを疑うことができない。

現在、私は柄谷氏や佐藤優氏を、人生を歩んできた人間としてトータルに評価したいと思っている。
これは、これまでの私にはなかった視点である。
論語の面白さは、ここにあるのではなかろうか。
よく読むと、若い時期にへまをやらかした孔丘、50代になって突如天下周遊をやらかした酔狂な孔丘、60代になって夢破れて時代の変化を違和感を持ちながら、大人として尊重される立場になってそれ相応に楽しもうとした孔丘、という人間的変遷が見える。これが、近年愛されている源泉なのでは?

今の時代の教育には、テーゼとアンチテーゼを、早いうちから両方教えるべきではないだろうか。民主主義にも、大人の世界で両者の意見がある。そして、両者にも一理があるではないか。どちらが正しいかを選ぶことによって、しっかりした教育ができるのではなかろうか?

2013年05月18日

『論語』湯浅邦弘

私にとって馴染みのテーマであるから、斜め読みの速読ができる。全部読むのに、1時間もかからない。

新資料としての『上海楚簡』。
訓詁学的には興味深い点が多くある。それと、武内義雄『論語之研究』の論語成立論に対して、補足的資料となるだろう。
だが、出土テキストの内容は、儒家の主張の範囲内であると思われる。

中井履軒『論語逢原』

温故知新の解釈『熟語解 造語解』黒本稼堂
しかし、黒本および湯浅氏の解釈は、伝統的解釈からまた外れている。伝統的解釈は、「昔習ったものを今もう一度習いなおす」という意味だ。

孔子が性を語らなかったこと、天を学ぶ意味について
湯浅氏の説は、とくに新味はない。私は、ブーバーの「我と汝」に引き寄せて孔子と弟子たちの差を解釈するべきだと思う。

従政論。孔子学校が就職塾であるという考えは、非伝統的とはいえ素直に読めば明らかなことである。むしろ、古注はその読み方に近い。

楽論。心に響き感覚を楽しませて統治する術であるという、荻生徂徠の説と違いはない。
孝論。孝が社会統治術であるという視点は、やはり荻生徂徠のそれと同じである。

夢論。その考証に至る道筋は丁寧であるが、結論は大したことがないと思われる。孔子を一努力者・伝記中の偉人程度に見れば、失望する孔子像は簡単に見えてくる。これが革命的であるという主張じたいが、驚きである。

2013年05月27日

『ポスト・モダンの左旋回』仲正昌樹

佐藤優氏から導かれて読んでいるが、じつに面白い。

ローティーがアメリカ的伝統に立脚するアメリカ的左翼を提唱する路線に、日本とアメリカは文化が違うことを認識しながら、著者は共感を持っているようである。そして、柄谷氏や浅田彰氏らの、かつてはポスト・モダン思想を喧伝し先導した論者たちが、近年明確な政治プログラムを掲げて旗を振っている動向に対して、これを全共闘時代への先祖返りを無反省に行っていると、手厳しい。

私は、これも結局は日本的文化伝統の枠内の出来事ではないか、と一旦は超越的視線から言ってみたい。

外国の輸入思想をもとにして日本的状況を普遍性のロジックで語ろうとする姿勢は、わが国民がいつも繰り返していることではないか。吉本隆明と丸山真男は、とっくにそれを指摘していたではないか。つまりは、また日本的思想のあり方を、反復しているのである。

親鸞と日蓮は、輸入された仏教を、ラジカルに純化させようとしたではないか。
仁斎と徂徠は、また輸入された儒学を、鋭く純化させたではないか。

日本ポスト・モダニストたちのやっていることは、差異と反復なのだ。そして、90年代以降の彼らの言説は、残念ながら日本的状況からずれ始めていると思う。柄谷氏の『世界史の構造』における現状分析はさすがの巧みさであるが、そこから後の倫理的提言は、どうであろうか。広範囲の説得力を、日本の中で持ち得ないと私は思う。

かといって、佐藤優氏が神皇正統記を持ち出して日本の国体を語る道も、ごく限られた国粋主義者にしか説得力を持ち得ないと、私は思う。

私はむしろ、これまで外来の思想を手がかりにして先鋭な議論を展開した人々を、代表的日本人として顕彰し、それらの議論の総合こそが日本的プラグマチズムなのだ、と今は仮に考えておきたい。

法然、親鸞、日蓮、仁斎、徂徠、宣長。その先に丸山真男、広松渉、吉本隆明、柄谷行人がいるのである。彼らの依拠する外来思想はいろいろであるが、全てそれらをまずは健全な常識から出発して純化し、納得のいく論理にまで再構成した先駆者たちであった。

最後に、90年代半ば以降の、氏の名づける「左旋回」については、やはり時代的現象であったと言うほかはない。かの時代はアメリカ一人勝ち時代であり、日本は無思想のまま世界の黙れるNo2であった。ポストモダン論者の「左旋回」は、その国際状況のもとに、日本国家を自立させようという企みを持った言説であったといえる。
2010年代の現在、日本は「侵略される」という危機感が急浮上している。これは、1945年以降の日本が直面しなかった(というか、東側の侵略というテーマについては直面せずとも左翼思想を組み立てることができた)問題である。ここに至って、「左旋回」した思想家たちは、おそらく足並みを乱すより他はないであろう。揺り戻して右傾化するか(高村光太郎!)、敗北主義に沈むか(ペタン主義!)、そのどちらかに至るならば、もはや誰からも見放されるであろう、、、

2013年05月28日

『近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連』丸山真男

「、、、変革は表面的な政治論の奥深く強い方法そのもののうちに目立たずしかし着々と進行していたのである。」(p138-139)
ということで、丸山はヘーゲルの中国=無歴史というテーゼを肯定したうえで、日本≠中国という仮説を検証しようとする。

朱子学は、華厳思想を裏口から輸入して展開した、宇宙を統一的原理で理解しようとする、包括的かつ排他的体系である。小倉紀蔵氏の指摘のとおり、そこには近代にも適合する合理性がある。ただ、中国・李氏朝鮮と日本を分けたのは、朱子学を受け入れたそれぞれの社会が、前者が世界システムにおける中心および周辺であったのに対し、後者が亜周辺であり、したがって農業社会を全て統合する静態的な帝国が成立できない地理的条件にあったことに求められるだろう。見よ、藤原醒窩の仏教排撃論は、朱子学によって仏教の非社会性を理路整然と批判して、朱子学の勝利を日本で短期間にもたらしたではないか。弟子である林羅山は京都公卿衆の漢唐訓詁学者を、朱子学の合理的理論を示すことによって圧倒したではないか。朱子学は、合理的な社会倫理として、彼らに表れていた。その合理的な社会倫理を国学として制定した李氏朝鮮は、前代の仏教をほとんど絶滅させ、土俗信仰を窒息させた。これこぞ、朱子学の隙のない合理的社会倫理が、他の信仰に対して反論の余地をなくして追いやる説得力を持っていたことを、歴史的現象として現してはいないか。

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『近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連』丸山真男(つづき)

「徂徠における公私はなんらかかる意味をもたぬ。なるほど彼において『公』的なものは『私』的なものに先行せしめられている、、、しかしそれは私的なものをそれ自体排するものではない」(p227)

林羅山の朱子学解釈では、公=天理、私=人欲であり、後者は当然の悪で抑圧さるべきものであった。これは、朱子学の本来の公私観である。だがこの公私観は、明治政府によって後世復活したことを、我々は知っている。ゆえに、明治国家は朱子学国家の遅ればせながらの完成なのであった。

では、徂徠はどうして「私」の領域の肯定的価値を発見することができたのか?ずっと後世の吉田松陰に至ると、「私」は再び否定される。それは、彼が長州藩一家臣として、日本国の「天吏」として自覚を持ったときに起こった滅私奉公倫理であった。その緊張を、元禄享保時代の仁斎・徂徠はもたぬ。およそわが国においては、外的緊張がない時代においては容易に階級意識が崩れて「昭和=元禄」社会が成立し、外的緊張が実感されたときにはエリートたちが天吏意識を持って下にもそれを伝播注入しようとする「一億火の玉」社会に転換するのではなかろうか。徂徠の異常なまでの博覧強記、舶来趣味への滑稽さを伴うまでの没頭、本家のセオリーをも越えるような鋭角な理論提出(しかし、実際の政治的力はもたぬが)、これらの特徴は、昭和末期ポストモダン時代の知識人たちの類型と、非常に近いのではないだろうか。

那波魯堂「学問源流」より
「徂徠の説、享保(1716-36)中年以降は信に一世を風靡すと云うべし。然れども京都にて至て盛んに有しは徂徠没して後、元文(36-41)の初年より、延享(44-48)寛延(48-51)の比まで、十二三年の間を甚だしとす。世の人其説を喜んで習うこと信に狂するが如し、、、程朱の注を用い書を講する人の許へは仮初に行く人もなければ、或は俄に朱注に論語徴を雑え並べて教ゆる人あり、、、中葉以来多少の考索の書、経書語録詩文の類、一言にても徂徠其非なることを云いたるは、見る人もなく、、、」
その流行が異常であったこと、昭和初年のマルクシズムのようである。いずれも、公定の権威的学問に反逆することが若い学ぶ者にとって時代の義務のように感じられた一時代であった。

2013年05月29日

『近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連』丸山真男(つづき2)

「こうした歴史的=場所的に制約された人格の創造した道が何故しかく尊崇に値するのか。徂徠学は、儒教的思惟の殻内から一歩外に踏み出て問題を考える余裕を持つ者を必然にこの疑問に誘致する」(p270)

振り返ってみれば、徂徠の作業は江戸時代最初の一世紀後半にすでに始まっていた、朱子学の自然的・普遍的・客観的・絶対的な「理」に人間の理想を全て結びつける、自己完結したリゴリズムを解き放ち、天道と人道を切断し(仁斎)人間の善悪は情念の程度の差であるという結論に至り(仁斎、益軒)、その後に表れた、一切の仁道とは政道であり、いにしえの聖人が制定した人間秩序繁栄のための礼楽刑政の法規制度である、という結論を導き出したことであった。ここに、儒者が聖人の文献を読む価値は、ただ現代の政治制度の参考として古人の智慧を尊崇する、という点にすぎなくなる。

この徂徠の見立てが、なぜまがりなりにも説得力を持ったか?

それは、徂徠の生きた江戸幕府は、たまたま六経に記録された周代封建制度に非常に類似した制度を形成していた、ということに尽きる。ゆえに、徂徠の信仰の基盤は、日本の限定された時代にしか通用しないものであった。中華帝国や李氏朝鮮では、儒教は中央集権王朝の士大夫のための学問でなければ説得力を持ちえず、だから朱子学なのであった。日本の国学は、すでに陳腐化・停滞していた徂徠学派を転覆させるために、徂徠の儒学は中国皇帝のための学問にすぎない、という当然の疑問を投げかけたのであった。二一世紀現代の社会においては、当然ながら徂徠のように六経を尊崇する基盤はない。六経から政治改革論議を行うことは、もはやできない。

ひるがえって現代の政治改革をホッブス・ルソーから論議することは、どうであろうか。我々がこれらを論議するとき、それは果たして民生の安定のために論議しているのであろうか。たいていの政治学者や社会思想家は、そのような論議をしない。むしろ、人類普遍の価値の実現という相から論議している。徂徠が間違っていてルソーが正義である、ということは、果たして普遍的な物言いであろうか。

「(徂徠も宣長も)ともに重点は文芸の倫理・政治よりの解放に置かれて居り、第二義的にその政治的=社会的効用が言及されている点、両者は全く思惟方法を等しくしている」(p288)

宣長が漢意を邪としてやまとごころを正となした方法は、儒学の逆張りである老荘思想と思想的立場としては同位相であり、また啓蒙思想の逆張りであるロマン主義と同位相である。個別を重んじ、歴史の諸時代が等しく価値あるものという視点を持ち、政治的イデーに一方的な正義を与えることへの懐疑的視点を持ち、文芸に人情を理解する効能を認める視点は、戦後民主主義にまで影を落としているが、これはすでに日本では宣長の視点に含まれている。宣長にあって戦後民主主義にないのは、日本を顕彰して日本以外の価値を第二義的に置く、エスノセントリズムである。いったい戦後日本が非エスノセントリズム教育を疑問なく行うことができたのは、ひとえに冷戦構造のおかげであった。今、戦後教育に「自虐史観」として疑問が出され、知識人たちの揶揄に反して民衆レベルの感覚で勢いを得ているのは、日本の置かれた位置づけの変化の徴候である。

『ダホメと奴隷貿易』K.ポランニー

栗本・端訳書では、『経済と文明-《ダホメと奴隷貿易》の経済人類学的分析』であるが、これは売らんがためのタイトル変更であろう。本タイトルは、そのまんまである。それに、ポランニーはダホメ王国を、本気で理想の非市場社会と捉えていたのであろうか?ダホメ王国はよく機能していたかもしれないが、現代人から見れば異様で残酷な国家であることは、言を待たない。これは確かに現代人のエスノセントリズムであるが、ここから逃走して、ダホメとかアズテクとか殷帝国とかの残酷に共感できるのは、それこそ知的エリートと変態的ロマンチストだけではなかろうか。以上の懐疑的意識を持って、読んでいきたい。

-歴史上のダホメ経済についての研究は、極端に集中化した官僚制が地方的生活の自由さや自主性を両立させることを可能とするという点で、現代人を感嘆せしめることだおる。また外国との貿易行政が権力主義的な君主制を背景に計画される一方で、〈ブッシュ〉すなわち田舎では大きく国家領域の外側にある社会組織を維持している。身分の低い者が住み、世襲の屋敷地がリネジの耕地や相続権を定められたアブラヤシの樹に囲まれている村落は、中央政治の活動から除かれている。(p24)

古代中国社会も、同様だったのではないか。孟子が想定する井田法などは実際には存在せず、対外貿易で富を蓄える中央の官僚組織と、ほぼ自然的自治のままに残される邑とが並存していたのではないか。この事態は、春秋時代末期まで続いた。春秋時代末期になって、子産などの中央集権改革者が、おそらく徴兵の必要性から、自然的村落に中央官僚の管理を及ぼそうとしたのではないか。孔子の三桓攻撃も、この中央集権への動きで捉えるべきであろう。戦国時代には、村落から文字通り「血税」を徴兵によって吸い上げるシステムが登場した。これは、おそらく魏や秦などが開拓した新田の農民を対象としていたのではないか。孟子の井田法は、結局のところ徴兵・労役の必要が生じた戦国時代の実情に合わせた農村管理システムであり、それを三代の古制であると錯覚した提案だったのではないだろうか。
この徴兵制を完成したのが秦帝国であったが、それは余りにも中央集権がいきすぎたシステムであったために自然村落からの反乱を招いて、短期間で崩壊した。続く漢帝国は、自然村落をある程度残しながら中央集権の網をかぶせる、後世に続く中華帝国の妥協的制度に結果したのではないか。

『ダホメと奴隷貿易』K.ポランニー(つづき)

-非国家レベルでは、家族的、地方的生活圏、すなわち互酬性と家族経済が支配的形態であった。市場システムがないために、交換は、労働、土地に及ばず、副次的なものにすぎなかったし、商品市場さえ孤立していて、ひとつのシステムにはならなかったのである。(p53)

再分配+互酬(家族経済)によって、国家は成立できる。春秋時代には、交換手段としての貨幣が果たして存在していたのか、疑問である。『論語』には、税収としての穀物、贈答品としての「束脩」が表れるが、これらは再分配および互酬で動く財貨であって、まだ貨幣ではない。

孟子になると、明確に市場経済に言及される。(壟断の故事)
考古学的にも、地域通貨が出土する。
子貢や陶朱公などの伝説的富豪は、春秋戦国の移行期の人物である。
すると、子貢の富は、どこから由来したのであろうか?
考えられるのは贈答・支払手段であった黄金が、国家間取引に使われることによって商人資本に転化することが始まったのであろうか。つまり、支払手段から交換手段への過度期に子貢はいた。おそらく、そのような商人資本的行動は、貴族階層にとっては外交的周遊の際に役得として行われていたことであろう。それを賤民である子貢がそれを行ったというのは、孔子の周遊の結果であった。

戦国期にはさらに土地が商品化されて、土地への投資による富の永続的蓄積が富豪によって始まったと思われる。孟嘗君の故事。

-しかし、全国にわたるセンサスが、そんなに細かく行政的に困難なところまで含んでいる主要な理由は、喜んで法に従い、命令に自発的にこたえる国民の参加があったことだった。(p62)

古代社会でも、国民の自発的参加があれば、精緻な行政を行うことができる。
そのためには、祭り、再分配を通じた王と国民のコミュニティーの一体感が必要であったろう。
気になるのは、詩経に歌われた歌の中には、君主と庶民の一体感を歌ったものと、苦役に駆り出される庶民の怨嗟の歌とが、両方収められていることである。
殷古代帝国は、互酬・再分配によって基盤が作られ、中央の大々的な祭によって一体感を持つ王朝であったと思われる。しかし、周辺諸部族の怨嗟を買い、祭儀の規模の絶頂によって崩壊したところは、アズテク帝国と類比できるだろう。
それを継いだ周王国は、前代の集権的システムが崩壊して使い物にならなくなった結果、首都での大々的な祭祀を継続できなくなった。それで、血族を各地に小酋長として派遣し、ゆるやかな血族連合を取る「封建制」となった。殷周革命の結果文明システムが混乱しコミュニケーションが低調となった結果、それらが回復するまでの間は「封建制」が機能した。しかし、中華世界のコミュニケーション能力が回復する時期となって、「封建制」システムは統御力を失い、春秋時代に以降するようになった。

2013年05月30日

『ダホメと奴隷貿易』K.ポランニー(つづき2)

-ダホメ王国の国家的レベルで行われる経済の再配分的形態には、、、たくさんの枝葉がある。しかし、日々の生活は、隣人とか、親族とか、信仰といった、地方的な、国家とはかかわらない慣習の中に埋め込まれている。(p83)

国家は、徴税と徴兵のための統計を司り、その統計は非常に精妙であった。国家は、全国統一の徴税率、売買価格の宣言を担当し、公正さの起源として住民から尊重された。国民は自発的に国家の支配に協力することを求められ、事後的な監察によって奉仕義務を怠ったことが判明すれば、村落の長は死罪となった。

このシステムは、日本の江戸時代と一点を除いて同様であった。違う点は、江戸幕府は始終米相場に財政を振り回されていたところにある。江戸幕府はこの一点に関しては市場の無軌道な力を寛容に認め、他を非市場システムで管理して安定と活力のバランスを取った社会であった、と評価できないだろうか。
明治時代においても、それが市場経済・資本主義を発展の源泉として強固に支持したにもかかわらず、江戸時代の市場・非市場システムの混合形態を貫徹しようとした。そして、それは相当程度成功した。明治政府は、徴税・徴兵において非市場システムを使って徴収して、国民の自発的服属をおおむね勝ち取った。それが、大正時代以降に資本の力が無軌道となって、非市場システムに大きく依存していた明治国家の癌として増殖したために、国粋主義者の強烈な反発を招き、右翼集団の暴戻として結果した。


夏殷周三代として儒家に賛美された古代中国においても、同様に精妙な徴税・徴兵システムが存在していた可能性がある。少なくとも殷代には、相当に完成した徴税・徴兵システムがあって、それが首都に大規模な金属器工房の運営を可能としたのではないか。ただし、王権が入ることができるのは邑の門の前までであり、そこから先は全く邑の父老の自治であっただろう。孟子の井田法のような上からの村落管理制度が村内にあったとすれば、それはわが国の均田制のように新規入植の村落を創設する時期においてであろう。そのような開墾が周代にあったかどうか、よく分からない。始皇帝と王莽は、既存の農村共同体に対して上から人工的な制度を押し付けるという、誤りを犯した。ゆえに、短期間で崩壊したのであろう。

古代社会において、互酬性は、村落構成員同士の間はもちろんのこと、国家と人民の間ですら、(再分配という形であるが)要求されるべきものであったに違いない。
なんで、詩経の中に、国家への怨嗟の声が入っているのか?
それは、国家が人民に再分配の義務を果たしていないことを、告発しているのである。

国家が再分配の義務を果たさない理由
1 対外戦争・対外債務支払。村落の許容範囲を超えた徴税・徴兵が必要となる。
2 その対外戦争が恒常化する時代、自国の常なる富国強兵化が必要となる。
3 市場経済の浸透。外国の要素がない場合においても、村落の犠牲のもとでシステム維持のための税収の増加が必要となる。
4 社会改造計画。上からイデオロギーを押し付ける官僚の意図が暴走する。

1は、隋、北条幕府の滅亡の原因。おそらく殷が滅亡した原因でもある。昭和日本の敗戦もこれに当る。明治日本。清代中国。ワイマール時代のドイツ。
2は、中国春秋戦国時代。80年代ソ連、現代の北朝鮮もこれに当る。
3は、享保以降の江戸幕府。
4は、コミュニズム全般。始皇帝、王莽。

-それにしても、人間の価値体系における、なんと底知れない対照であることか。シブ組織はまた熱烈に祖先の信仰を行う血縁的集団であり、それは国民的な宗教行事の紀律においてなおざりにされた死者の精霊や幽霊を世話することから生じるものである。君主制はこれらとまったく同じ価値を持っている。しかしながら、シブ組織のもつ家内的、人間的雰囲気は、厳格に遵守されている祖先崇拝の戒律と結ばれた国家的理由で正当化された、君主の怖るべき規模での残酷な拷問に見せる放縦さとは、まったく異なったものである。(p100)

論語の世界は、天下国家の観念から遠い、家族経済、互酬社会の世界に留まっている。
孟子になると、これらの世界は遠景に遠のき、国家による社会再編のテーマが前面に出てくる。
孟子にとって、国家による社会再編のテーマと、互酬の原理とは、グロテスクに接合されている。

井田法の記録は、実は周王朝が保有する戦争奴隷を働かせた、奴隷農園の組織ではなかったか。そして、このような計画的農園は、戦国時代当時灌漑により積極的に作られていた新田において、普通に見られた区割り図であり、ゆえに孟子にとって違和感無く印象されたのではないか。(わが戦後の八郎潟を見よ。同質の農地ではないか。)
いっぽう、詩経に記録された王と農民との互酬的関係は、自然的自作農村と王朝との関係を表した作品ではなかったか。
孟子は、戦国時代の法家的官僚社会による国家改造を理想化するために、本来異なる原理の農村の描写であった井田法と詩経の世界を混同して、同じ農村を描写したものであるとみなしたのではあるまいか。コルホーズや人民公社での生活が地上の楽園であるというプロパガンダ作品が、どれだけ作られたことか。そして、それが国家管理下の地獄絵図の実態からいかに外れたイデオロギーであったか!

『世界史の構造』再読

いま、仲正昌樹『ポスト・モダンの左旋回』による柄谷批判を通り、ポランニー『ダホメと奴隷貿易』を一とおり読んだ後、もう一度柄谷の本書に戻ろうと思う。

「二〇〇一年にいたるまで、私は根本的に文学批評家であり、マルクスやカントをテクストとして読んでいたのである。」(序文)

これは、仲正氏の批判を受けて、自らあえてマルクスと同じい理論の提唱者たらんとする、決意ではないだろうか。柄谷氏は、もはや人生の最終期に差し掛かっている。その彼が、時代に直面して最後に自らの理論を立てて後世の批判を待つ、という姿勢に立っている、と私は解釈したい。

「未開社会における再分配と、国家による再分配とは異質である。」(p10)

ここで柄谷は、ダホメで見られるような首長と臣民との間に相互義務があるような国家の「再分配」と、支配-被支配関係が根底にあって最初に略取がある、(柄谷の用語に即した)国家の「再分配」とを区別する。それは、国家が暴力装置であるという定義を置くためである。柄谷がポランニーを批判するのは、ダホメ王国が首長と臣民との相互義務という小共同体の原理で動いているのに巨大な国家システムを打ち立てたその原因を、近代奴隷貿易による富の流入という外部的要因に見出そうとしていると思われる。つまり柄谷には、近代以前の歴史的な国家は、すでに互酬原理とは無縁な、根源に略取がある暴力装置である、という視点があると思われる。

柄谷氏は、交換様式Dを、歴史的時代を蔽い尽くす交換様式B(前近代身分社会)およびC(近代資本制社会)の桎梏を越えた、互酬原理のゲリラ的復活、として位置づける。

前近代身分社会における交換様式D・・身分制の桎梏を突き抜けた、人間が対等の関係を結ぶべきであるという原理
近代資本制社会における交換様式D・・商品交換の制約を突き抜けた、人間関係の原理?

家族でもない他人が、国家の指示も、貨幣取引にもよらず、アソシエーションを作ることが、、、できるか?卑近なたとえでいえば、出世払いではまだ足りず、貧しい仲間がいればアソシエーション全員で助け合うような組織、しかも会った事もないような相手を援助する組織を想定しなければなるまい。なるほど確かに、これは歴史的に見れば、宗教団体でなければならない。

柄谷氏ら全共闘参加者たちが求めて挫折した、理想のアソシエーション。確かに全共闘には、千年王国的な宗教性があった。
それが敗れた後、資本側とアンチ資本側とが互いに鏡のように求めていた主体性から逃走することを、柄谷氏も80年代まで薦めていたはずだ。それを今になって再び全共闘の理想まがいのことを再び言い出したので、仲正氏の批判することとなった。
だが柄谷氏も、自らが言っている交換様式Dが宗教的でなければならず、ゆえにそれは構造の指摘者である柄谷氏が具体的に言い出せるものではない、柄谷氏の力では何も作り出せない「X」であることを、自覚していることであろう。

2013年05月31日

『世界史の構造』再読(つづき)

こうして明らかなのは、どの交換様式からもそれに固有の権力が生じつということ、、、である。、、、以上三つの力のほかに、第四の力を付け加えなければならない。それは交換様式Dに対応するものである。私の考えでは、それが最初に出現したのは、普遍宗教においてであり、いわば「神の力」としてである。、、、交換様式Dは、人間の願望や自由意志によるよりもむしろ、それらを越えた至上命令としてあらわれるのである。」(p22)

柄谷氏は、現在の世界史の構造を作っている交換様式A・B・Cを越える力は、自由意志で選択できない力である、と明言する。ここに、主体的運動は不可能を宣言される。歴史を動かす成果は、何かに取り憑かれた結果として、予測不可能な着地点に向かう。今、我々は何かをなさねばならないし、自分の行った結果として何かが成し遂げられるかもしれないが、その領域はもはや不可知である。それはデリダ氏の死去直前の決意と並行しているのであるが、それはまた晩年のチェーホフとも並行している。チェーホフは、そこで絶望すれすれのユーモアの境地に至ったが。

ウォーラーステイン、チェース=ダンの「世界システム」

・ミニシステム:国家が存在しない世界
・単一の国家によって管理されている状態:世界=帝国
・多数の国家が競合している状態:世界=経済

ウィットフォーゲル「中心・周辺・亜周辺」

主君と家臣の双務(互酬)的契約関係は、古代中国に現実に存在したか?
孟子は、明確にそのような関係が存在している、と主張していた。
周王朝は、王権が弱く、同姓諸侯が本質的には対等の権利関係で割拠する、という意味で、封建制度であった。これは、おそらく中央集権的な殷帝国の軍事的崩壊によって出来た権力の空白を、互酬的原理を強く残した辺境の蛮族周が支配したところから、生まれたのであろう。後世の(もっと規模が大きいが)モンゴルウルスと、類比できる。よって、封建制度のタガが緩んだとき、分裂した春秋時代となった。このとき諸侯の権力は、相対的に大きくなかった。なので、諸侯の家内奴隷であった士大夫の自由度が増して、下克上の世となった。そこから、互酬的関係が-法的には存在しなかったとはいえ-倫理的に正義である、という孔子一門の主張が、一時的に勢力を得たのではないか。それが力を持つことができたのは、戦国期に中央集権国家が再び台頭するまでの期間に過ぎなかった。戦国期以降の中国社会は、アジア的専制国家である。西洋では世界=帝国のタガが緩んだ痕跡は世界宗教に残ったが、中国社会では儒教に伏在して残り、後世朱子学によって-専制帝国と和合する形で-ある程度復興された。

条里制・井田制

「条里プランの起源を班田収授制に求める説はほぼ否定されている。現在の有力な説は、墾田永年私財法の施行で盛んとなった富豪や有力寺社による農地開発(墾田)の急増が条里プラン成立の起源であるというものである。」(Wikipedia、『条里制』より)

この研究成果は、古代中国土地制度史において、示唆的である。
すなわち、日本の条里制は班田収受によって整理されたものではなくて、新規に増加した荘園田を管理するために導入された能率的区画整理である。

中国戦国時代、魏・斉・秦などで大規模な新田開発が行われて、その人口と財政の急増が戦国諸国の戦争と人材収集の資金源となったはずである。
そのような新田は、全くの国家計画・国家管理の人口村であったはずで、そこに孟子が言う井田法に近い条里制が導入されていた可能性は、高いと思われる。
もし井田法のような区画制が三代であったとするならば、それは国家が所有する戦争奴隷を働かせた公田に制定された特殊なケースだったのではないか。周ならば、殷王朝の遺民を農奴として新田に投入して財源とした可能性がある。

戦国諸国が自ら開発した新田を課税と徴兵を能率的に徴収する資本として見ていたことは、確かであろう。孟子は、ここに啓蒙専制君主のように最低限の文化を導入せよ、と主張したと言えるのではないか。孟子の主張は、いちじるしく上からの農村管理の考えがある。その考えは荀子・韓非子においてさらに強化されて、始皇帝と李斯の統制経済政策に至る。彼らの国民統制政策は、ナチスドイツやスターリンソ連のそれと、きわめて類似している。

『トランスクリティーク』柄谷行人-再読(つづき)

「人がすすんで官僚になることはない、と考えなければならない。」(p118)

アッシリアの官僚は宦官であり、ビザンチンもたしかそうであった。オットマン帝国のイェニチェリは、奴隷貴族である。荀子が力説したように、戦国時代において成立した専制官僚国家において、官僚は国家の奴隷でなければならない。

「(アジア的共同体における)農業共同体とは、専制的国家によって枠組を与えられた『想像の共同体』である。」(p112)

この視点は、面白い。中華帝国における村落・氏族共同体は、専制帝国が成立した後に、その原理と抵触しない範囲で互酬的原理を維持するために(国家の手を経ることなく、下からの自発的防衛策として)再編されたものである。それは、氏族社会にあった政治共同体とは断絶している。

「交易の必要は未開の段階からあった。小さな氏族的共同体の上に高次共同体が形成されたのは、そのためである。、、、国家は、そのような原都市=国家の間の交通(交易と戦争)によって形成されたのである。」(p123)

国家の両面性。征服-服従の関係、および広域での安全な交易を保証する組織。

「国家は(貨幣)を遠隔地交易から得たのである。」(p125)

戦国時代、戦略的輸出物資は、おそらく絹であっただろう。その輸出ルートはどこにあっただろうか。北方の匈奴、西方の月氏を通じて、西方と交易していた可能性が高い。その流れの逆を伝って、トルキスタンから玉が入り、これが王のステイタスを増す財宝として、大きな力を持った。戦国諸侯は、玉を得るために絹を増産して輸出した、という仮説を立ててみたい。

山田勝芳『貨幣の中国古代史』を読むと、戦国期から漢代にかけて、物の貨幣に対する変動が市場で当たり前の現象となり、そこから投機によって利益を得ることが当然の智慧として見られていたことが分かる。孟子の中に見える、商品には価値に応じて異なる価格が成立するのが自然である、という主張は、価格が国家の統制から外れて決定されることを表明しているわけで、これは現代人には分かりやすいが、古代社会においては自明でない。
農村共同体の維持という観点から見れば、陳相の一物一価論は、もっともな主張である。すると、戦国時代の農家は、崩れて行った農業共同体の維持を主張していた集団であるともいえる。近代に直せば、共同体の自生的秩序を擁護するアナキズムといえようか。
だとすれば、それに反対した孟子の立ち位置は、いかがなものであろうか。儒家の生活感覚として、すでに農村共同体から切り離され、国家に寄生する官僚予備軍としての色彩を帯びていたのであろうか。どうもそのように見える。その立ち位置で、君主と官僚との間の互酬性を主張することができるだろうか。後世の儒者たちがむざんにも国家の奴隷となることを自ら任じたのは、儒家の立ち位置からして当然である。孔子と孟子は、理想が必然的に裏切られるレールが敷かれた思想家であったというべきか。

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