祇園祭もいよいよたけなわだが、今年はどうやら雨に祟られそうだ。
本来旧暦七月七日の行事のはずの七夕を新暦でやっても、空が晴れないのは当たり前。学校の夏休み前にやっちまおうという考えからたぶん定着してしまっているのだろうが、それだったら「七夕当日はふつう空が晴れない」という前提で行事を工夫した方が、無駄な期待を子供たちに持たせるよりももっと楽しく演出できると思うんだが。大方晴れているだろう富士山頂の施設にみんなで願い事のeメール送るとか、いいのではないかな?
しかし祇園祭は古来旧暦六月に行なわれていたので、元々梅雨の季節とわずかにかぶっている。だからこっちは致し方ないか。
雨の降る、安井金毘羅宮の石灯篭で。生き物に好かれない性分の私だから、黒猫氏が一瞬こっちを向いてくれただけでも、僥倖(ぎょうこう)。
この辺ではようやく雨は下火となったようだが(なんだこの言い方は、形容矛盾だ)、全国的にはひどい状況で、家計にとってもこれから野菜の値上がりが直撃するだろうから、影響は続いていく。
生きとし生けるものはすべて、食わなきゃ生きていけん。
いつもより水量の多い鴨川を、エサを求めて飛んでいく鳥の名は、、、
知恩院の大鐘楼の裏手から、東山三十六峰の中に入ることができる。
「峰」というよりもほとんど丘であって、少し登ればすぐに山上にたどり着くことができるのだが。
中に入ると昼なお暗く、ヒグラシの鳴き声が聞こえてくる別天地である。
山道に、ヤブミョウガの群落があった。つやつやとした葉っぱをつけて、今は白い花の季節である。
夏の盆の季節がやってきた。
夏の季節に迎え火(むかえび)を灯して死者の霊を迎える、迎え日(むかえび)のシーズンの始まりである。京都の盆は、十六日の大文字送り火に火が灯されることによって、クライマックスとなる。
四条通りから東を眺めれば、通りのビルの向こうに四季を通じて美しい稜線が横たわっている。
東山三十六峰。真夏の夕暮れの雲ひとつない空と、境界を作る。こんなにも都市化されてしまった通りの背景に人口的建造物が何もない尾根が見えるなどは、ちょっとした奇跡である。私はこの稜線を四条大橋からかいま見て以来、京都という古臭いまちに愛おしさを持ってしまったようなものだ。
月並みながら、京都の夏は五山の送り火がなくては始まらない、もとい、終わらない。
8月16日、夜の八時から点火される大文字山の送り火は、五山の中で最も大きく、そして最も美しい。
この火に送られて、死者の霊は再びあの世へ戻っていくという。写真は平安神宮からの、大文字の遠景。
東山の石塀小路を歩いていると、塀越しから萩(はぎ)の枝がちょいと垂らされていた。そうか、今は萩の季節なのだな。蕪村句集にいわく、
黄昏や萩に鼬(いたち)の高台寺(明和五・七・二〇)
いにしえの時代には至るところで見られた萩も、元来が華やかさに欠ける花であるからか、今や観賞用としてもぱっとせずに片隅に追いやられてしまっている。雨続きの九月の間に空いた晴れ間の日に、御所の東隣りにある萩の名所の梨木神社(なしのきじんじゃ)に行った。
彼岸ごろの午後は、まだまだつるべ落としのように急いで暮れるまではいかずに、傾く西日が長く続く。ザクロの木には大きな実が成り揃って、見るからに甘酸っぱそうだ。
三条大橋から三条通り(旧東海道)を東に歩いていくと、ほどなく峠に行き当たる。京都七口の一つ、粟田口(あわたぐち)である。京都と東国を結ぶ交通の最も重要な関門であり、当然のことながら昔は関所が置かれていた。源平合戦以来、数多くの合戦の舞台ともなった。
昨日、アパートの一部屋飛ばした隣に住んでいた老婆が、遺体で発見された。死後相当日経っていたようで、すでに遺体には蛆がわいていたという。
警察からそう言われてみると、確かに先週末ぐらいから、部屋の前からトイレ臭が出始めるようになっていた。長期間外出してトイレを不潔にしているときに臭う臭気と同じものであったから、不快でありながらも全く気にも止めていなかった。おそらく、それは死後体内に残っていた尿素(体内には老廃物として多量に流通している)が分解されてアンモニアに変成した臭いだったのであろう。警察らが部屋を空けたときの臭気は、隣の部屋にも侵入してくるほどに強烈なものであった。いわゆる「死臭」とは、あのような目を開けてもいられない臭いであるのか。ほとんど顔もあわせたこともない婆さんであったが、全くの孤独死であった。私の住んでいるアパートでは、よく人が死ぬ。以前別の隣に住んでいた老人が孤独死して発見されたし、上の階でも火事があって一人焼死したことがある。これで三人目だ。
東山は、坂の多い街だ。
東山区を南から北に伸びる東山三十六峰は、区の北辺の三条通りを通す粟田の谷あいで一旦切れる。粟田小学校の横から、粟田山荘の横を通る坂道が南へ向けて続いている。その坂の脇に、野菊の花が群がり咲いていた。
昨日(2006年10月6日)は、旧暦八月十五日で「仲秋」。「十五夜」と言えば、特にこの日のことである。中国文化圏では、昨日は「仲秋節」(チョンチュージェ)として大きな祭りの日でもあった。台湾では昨夜は絶好の月見夜空であったというが、あいにくここ日本の京都では低気圧の影響によってほとんど曇り空であった。今日も、朝から細かい雨が降ったりやんだりの肌寒い一日。日は照るとなく陰るとなくの移り変わりがずっと続いていた。
知恩院近くの中華食材店では、月餅(ユェピン)の詰め合わせが売りに出されていた。仲秋節に合わせて日本のお中元さながらに贈答される高級菓子で、大陸では年々贈答の内容が高級化しているので、当局が規制に乗り出しているという(YOMIURI ONLINE関西発『劉さんの中国見聞記』参照)。
もはやそこまで仲秋節を大事にしない現代の日本人であるが、名月の季節であることには変わりがない。今は彼岸をちょうど過ぎた時期。日が暮れると共に東の空から月が出て、夜通しをかけて空を巡り回って、日が明けると共に西の空に沈む。今日10月7日は暦の上では仲秋節の次の日であるが、月齢で言えばちょうど満月に当たるのだ。夕方になると雲が東天にかかってしまい、今日も月の出を見るのはだめだったかと半ばあきらめていた。だがしかし、午後6時50分ごろ、ついに東の夜空は雲が切れて、東山の上に秋の満月が顔を出した。
さくらさへ紅葉しにけり鹿の声(明和八年九月三日)
蕪村のこの句が詠まれた旧暦九月三日は、新暦ならば十月十日ごろに当たるようだ。秋になれば、桜の木すら紅葉するのをあえて面白がった句だ。下の句には紅葉につきものの「鹿の声」を置いて作った非常に構成的な臭みのある句で、この句が詠まれたときに「鹿の声」が本当に聞こえたかどうかなどを詮索することすら、愚かというものだ。
夜の京都は洛東に限る。高台寺から東大谷近辺に縦横に通る小路には店々の明りが軒を並べて、優雅な通り抜けを楽しむことができる。北に向って知恩院下を通れば、峻厳な三門のシルエットが背後に東山を抱えて写り、月夜には特に美しい。さらに北の三条通へと続く青蓮院から粟田への道もよい。東に向って粟田神社の境内に迷い込めば、夜には不気味なほどの山の静寂さが待っている。東山界隈は、夜に拡がる光と闇の帝国だ。
三条通から北は行政区画で言えば左京区の領域となる。三条通からさらに進んで二条通を東に進んだら、南禅寺永観堂前のバス停に出る。その東には、京都の最東端のメインストリート、鹿ケ谷通が通る。南禅寺・永観堂の近辺もまた、夜の光の彩色が美しい場所だ。紅葉の季節にもなれば、あらゆる場所が名所となるであろう。
柿の実ほどに、日本の「本来の」風景のあり方を思い起こさせる果物はない。「本来の」をかっこでくくったのは、昔から今まで様々なメディアを通して蓄積されてきたお決まりのイメージとして、秋晴れの農村にひなびた柿の木が実をたわわに生らせている風景ががっちりと形作られていて、それがお約束として私たちの季節への想像力を逆にしばっているかもしれないことを言いたいからである。だがなるほど、こうして見ると秋晴れの午後に柿の実はたいそう絵になる。木から重く垂れ下がった柿の実が、下を流れる白川に今にも洗われそうになっていた。
洛東の街中に隆起する神楽岡(かぐらおか)。見晴らしよい結構な小丘陵で、当然のごとく多くの寺社や歴代天皇の陵墓、それに旅館などがひしめき合っている。吉田兼好の家である卜部(うらべ)吉田家は、最高峰である吉田山を神域とする吉田神社の社務を代々努める家であった。吉田家にはもう一つ藤原吉田家があって鎌倉時代以降朝廷で重きをなしたが、この家もまた吉田山の近くに邸宅を構えたためにこの家名を名乗るようになった。
坂道の上から、見下ろす。左手に真如堂(真正極楽寺)の塔と伽藍が見える。背後には東山。真如堂は王朝時代からの歴史を持つ寺院で、この神楽岡附近で繁栄と衰微を繰り返してきた。再建されて現在の位置に建ったのは、元禄六年(1693)のことだ。元禄の昔の時代にもまた、この地点に立てば山と寺院を見ることができたのであろう。それ以降、街並みの形は時代と共にすっかり変わった。だが、過去の歴史が一掃されたわけではなくて、こうして風景の中に降り積もっている。この坂からの眺めは、京都の街ならではのひそかな絶景。
今日は立冬。東日本では大風が吹いて、京都でも昼間にも関わらず一気に冷え込んだ。一時的な寒さだとは思うが、暦にぴたりと会った肌寒い秋空の日であった。京都美術館前の街路樹は急速に色づいて、後は枯葉を散らすばかりだ。
晩秋の午後は、光と影が濃い。この平安神宮や京都市美術館・国立近代美術館が集まる岡崎かいわいは、京都市中でも珍しく西洋的なすっきりとした街区と、敷地にゆとりを持った建築で占められている。
元は院政時代に「六勝寺」(ろくしょうじ)という上皇たちが建立した私的な大寺院が集まっていたところである。摂関政治が地方の豪族の台頭の前にゆらいだ時期に、パワーバランスの空隙を突いて一時的にこの国の皇帝が実権を握った時代であった。皇帝たちはついにこの国の主権者であることを再び思い出して、それにふさわしい専横を振るう快楽を取り戻した。そんな時代に建てられた、ささやかなぜいたくによる寺院だった。だが、日本は大陸中国とは違って、そのような権力のあり方は長く許されなかった。結局、それらの寺院は誰も復興する者も現れずに全て廃絶した。そこが明治時代になって、計画的に造営がなされた地区である。ここからも東山の穏やかな山並みが、よく見える。
夜の気温は一〇℃を下回り、ようやく朝の空気は「寒い」と形容するに値するところまで下がるようになった。広大な南禅寺境内の紅葉も今朝はところどころ色づいている。一番の見ごろまで、もうすぐだ。
境内前の西正面から南に向って歩けば、金地院(こんちいん)前の道を通ることになる。南禅寺の一塔頭(たっちゅう。脇寺)であるが、独立した構えを見せる堂々とした大寺である。道はこのまま三条通につながっている。
道の脇に、山のふもとの墓地に続いている路地がある。塀の向こうから一本の紅葉がのぞいていた。
路地の入口に据え付けられてある石柱によれば、奥に長谷川玉峰(はせがわぎょくほう)の墓があるという。長谷川玉峰。文政五年(1822)~明治十二年(1879)。呉春(ごしゅん)に始まる「四条派」の画人の一人で、呉春の異母弟である松村景文(まつむらけいぶん、安永八[1779]~天保十四[1843])に学んだ、、、しかし、日本画を見る目があまりない私であって、この人物のことは今調べてみるまで知らなかった。
菊は旧暦九月九日の重陽の節句を過ぎると、「十日の菊」と呼ばれる。「六日のあやめ、十日の菊」という言葉がある。五月五日の端午の節句を過ぎたあやめと重陽の節句を過ぎた菊は、もはや観賞のシーズンを過ぎてしまった残されものにすぎない。「六日のあやめ、十日の菊」とは、そのような時代遅れで役に立たない物事を揶揄した言い回しなのだ。
確かにすでに木枯らしの吹く寒空の下では、菊見という気分にもならないかもしれない。だが、屋内にあれば話は別だ。菊の活け花には、華やかな白磁よりもこのような枯れた味わいの陶器がよく似合う。高台寺前、『中谷』で撮影。
紅葉の季節になって、有名どころではどの寺社でも夜間拝観を行なっている。ライトアップして大層きらびやかであるものの、拝観料を取られる。まあ当たり前なのだが、わざわざ料金を払って囲いに隠された景色を見るような気がしない。下は、紅葉の大名所である永観堂(禅林寺)のライトアップ。ただし、有料拝観の庭園の、その外側。
三条通から知恩院前へ抜ける道を通る道すがら、夜空に青い光が走っていた。やはり夜間の特別拝観を挙行していた、青蓮院の天に向けたサーチライトが作る、幻想的な風景であった。京都の街は王朝時代の昔から、人間によって入念に手が入れられ続けてきた。このちっぽけな丘の多い盆地は、日本人の作った箱庭である。どうせ星もよく見えない京都の街中のことだ。こうした人工の天の河が付け加えられてもまたよいではないか。
琵琶湖疏水は、比叡山脈をトンネルでくぐり抜けた後、山科盆地でいったん地上に出る。天智天皇陵の北辺をかすめて、盆地の山すそを通る。そして再び粟田口の坂に至ってトンネルをもぐり、蹴上の浄水場前に湧き出して、京都盆地に水と電力を供給することとなる。言うまでもなく、明治時代に京都府の総力を挙げて行なわれた一大近代化事業であった。開通当時は蹴上に残るインクラインが象徴しているように、水運のためにも利用されていた。むしろ当初は水運を主要な目的として企画されたのであったが、やがて時代が進み鉄道の利便が発達するにつれて、内陸の水運交通はアナクロになっていった。昭和初年には、もはや若干の観光船が通る程度となっていたのである。現在は、特別な催し物のため以外には、舟が通ることもない。
高台寺の境内は、少し外れにあるこの山門から始まって、背後に広大に広がっている。現在は境内に店屋などが並んでいて実感できなくなっているが、実は東山屈指の巨刹である。天下人・秀吉の正室北政所が隠居した寺だけのことはある。
高台寺山門の前は、すでに落葉で敷き詰められていた。京都の紅葉の季節も、もはや盛りを過ぎようとしている。春に散る桜を楽しみ、秋に落葉を愛おしむ。日本人はつくづく散る景色が好きな民族なのだろう。見かけはひょろりと頼りないが、夏を過ぎてもなかなか散らない槿(むくげ)の花は、韓国の国花である。春夏秋冬の季節を問わず繰り返し咲くことのできる薔薇の花は、イギリスの国花である。いずれも散る景色を喜ぶ花ではない。一年のうちに二度もセンチメンタルな季節を経験する日本の民が、何につけても情緒過剰になってしまうのも、致し方ないことだ。
もはや落葉はますます盛んで、冬の枯景色が訪れようとしている。
知恩院、三門の脇の松も恒例の腹巻き化粧に。地面にはしゃがれた落ち葉が敷き詰められて、舞台背景は秋から冬へと転換する間際であった。
知っての通り、松が寒がっているから腹巻きをさせているわけではない。寒さの中でマツクイムシを誘い込んで、春に焼却するためだ。やせた土地を好む松の木は、こうして庭園内で育てる以外には次第に山里から追いやられようとしている。山が放置されることによって腐葉土が積もり、コナラなどの広葉樹が支配的となっているからだ。今では貴重な京都のマツタケも、徳川時代にはぜんぜん貴重でも何でもないほど大量に市場に出回っていたと言うのであるが、、、
ユリカモメが鴨川にやってきた。冬の季節になると、ユーラシア大陸から日本に渡ってくる代表的な渡り鳥だ。『伊勢物語』業平都落ちの段で、隅田川で一行が「これなむ、都鳥!」(これこそ、都鳥ですよ!)と見かけて京の都を懐かしんだ鳥は、このユリカモメのことであるという。
固まって日なたの川面に休んでは、時々集団で飛び移る。といってもさほど遠くに行くわけでもなく、100メートル程度の距離をあちこち移動するだけだ。時に橋の上を乱れ飛んで、通行人や観光客を驚かせる。
冬の間じゅう橋の下の川でのんびり暮らしているが、その辺の人間たちよりもはるかに遠い距離を旅行している者どもだ。人間の方が、連中よりもよっぽど視野が狭いのかもしれない。
今日は、一年で最も昼が短くなる冬至の日。冬至の日とクリスマスとがほとんど接近しているのは、偶然ではない。12月25日はもともと古代末期のローマ帝国でキリスト教以上に流行していたミトラ教の、冬至の大祭の日であった。このミトラ教はペルシアが起源でギリシャのヘリオス神信仰とも習合した太陽神信仰であり、「背教者」ユリアヌス皇帝が信仰していた宗教でもあった。すでに国家の庇護を受けて勢いに乗っていたキリスト教会が、ミトラ教を圧倒するために、あえて敵の宗教の大祭の日をイエスの誕生日として指定して敵の宗教行事を乗っ取ったのが、クリスマスの真の起源なのだ。イエスの本当の誕生日は、全く明らかでない。
さて日本の冬至の日は、陰陽思想による「一陽来復の日」として、柚子(ゆず)湯につかるのが昔からのならわしである。昔は銭湯でもこの日にはゆずの塊を網に入れて湯船に放り込み、香り立ち昇るゆず湯を作っていたものだ。今や銭湯じたいがほとんど見られなくなってしまい、スーパーでは各家庭用に小さなゆずがばら売りされている。写真は、四条裏寺町の西導寺で撮影したもの。見事な鬼柚子だ。だが日の光はのどかに暖かく、冬の盛りであるはずの今日の暦の寒さはほとんど感じられなかった。
あと指折り数えられる日で、年が変わる。錦市場の各商店の売り物もまた、正月向けの品揃えとなっていた。京都の食の伝統が、ここには満ちあふれている。正月のハレの食膳に並べられるであろう品々は、さすがによそ者とは一線を画すこの土地独特の文化の重みを感じさせる。
京都は海に遠く、しかも古くから都市文化が花開いていた。その結果として、京都の食は丁寧に仕上げた煮物と、塩や麹を生かした漬物のバラエティーに富んでいる。店頭に並ぶ煮物の数々。中心にあるのは、もちろん京都の正月に欠かせない棒鱈(ぼうだら)の煮物。麩屋町通り西入ル、「不二食品」で撮影。
海には遠いが、京都はすぐそばに琵琶湖がある。だから伝統的な京都の食には、淡水魚が深く食い込んでいる。宮廷料理ならば鯉料理だが、この店先にあるのは、もっと控えめな魚の鮎、どじょう、タニシ、それに琵琶湖のイサザなどだ。御幸町通り西入ル、「のとよ」で撮影。
京都は野菜については本場。京野菜も正月用に正月大根や人参、水菜を揃える。いずれも白みそ仕立ての雑煮に欠かせない食材だ。京都を中心とした関西地方に広がる白みその雑煮は、昔京都の朝廷で白みそがお菓子として出されていたことを庶民がまねたところから関西一円に広まったとか。白みその甘さは、甘いものにありつける機会が乏しかった昔の庶民にとって、めでたいご馳走なのであった。御幸町通り西入ル、「四寅」で撮影した。
今年の暖冬は全地球的で、ニューヨークでもアルプスでもこの季節ならばあるはずの雪がとんと見られないという。地球温暖化は冬の風景を一変させるところにまで、もう来てしまったのかもしれない。
今週の半ばまでは冬とは言えないような暖かさであった日本の京都も、週末にようやく今年初めての寒波がやってきた。夜中には氷点下近くまで下がり、澄み切った空にオリオン座や双子座、天狼星シリウスなどの冬の星座が都会の光の中でも明らかに輝いていた。
日が変わると雪雲の舌は南に延びて、京都市内においても初雪となった。早朝の石塀小路には、わずかに雪が積もった。巷の雪化粧は、朝餉(あさげ)の時間だけであった。昼になれば、雪はもう消えた。
正月の京都で最もにぎわうのが、南の伏見稲荷大社と、この祇園の八坂神社。大晦日の夜から元旦にかけては大した人手だったようだが、正月三日の今日にもなると混み合いようも中ぐらいだった。
新暦の一月上旬は、草木も枯れる季節。しかし正月の期間だけは、こうして神社の境内に御神籤(おみくじ)を結んだ白い花が咲き誇る。訪れた多くの参拝者が残した花だ。このうち、去年の願いがかなったもの、あるいは今年の希望が実を結ぶものは、いくつあるだろうか。この白い花々も、その中身は満願の花、半願の花、あるいは残念ながらため息に散る徒花(あだばな)まで様々だろう。とにもかくにも、新年おめでとうございます。
さて午後にもう一度足を運んでみると、能舞台上で恒例の百人一首が行なわれていた。古装束に扮した上での奉納遊戯が、参拝客の足を留めて舞台下に集まらせる。今日の午後はよく晴れて、神社を訪れる人数も次第に増えていった。
桜の季節、祇園祭の期間にも大にぎわいとなる新京極・寺町であるが、当然正月も参拝客の人であふれ返る。通りの長さは大したこともないが、豊臣秀吉が京都の街割りを行なって現代の京都市中のプランを決定して以降、ここは京都の繁華街の象徴的な中心であり続けている。
秀吉が天正十八年に京都の街割りをしたとき、市中の各所に点在していた小規模な寺社を一ヶ所に集めて整理することとなった。選ばれた土地は、かつて平安京の東の限界である東京極通りがあった近辺であった。以降、この土地は「寺町」と呼ばれ、その通りは「寺町通り」と呼ばれるようになった。そしてその隣の通りが「新京極通り」と呼ばれるのは、ここに東京極通りがあったからである。
だから多くの小規模な寺院が、寺町附近にはある。新京極通り沿いにある蛸薬師堂も、鏡餅を奉った正月仕様であった。このお堂の前を通る道が、「蛸薬師通り」と名付けられている。京都市中の東西の通りを覚える歌の「あね(姉小路通り)、さん(三条通り)、ろっかく(六角通り)、たこ、にしき、、、」の「たこ」に当たる。
「たこ」の南にあるのが、「にしき」こと錦小路通り。錦小路通りと新京極通りが交わるところにある錦天満宮も、今日は大入りであった。
冬の花で最も詩味があるものといえば、福寿草であろう。雪景色と最も合う花である。だが水仙の花もまた、手軽に楽しめてよい。
ところが水仙も福寿草も、王朝時代の歌には出てこない。水仙は唐から日本に伝来し、絵や歌の世界で定着したのは徳川時代になってからである。一方の福寿草はもともと北日本に自生する花であったが、長らく西日本中心であった文化からは、その存在が見落とされてきた。これも旧正月を飾る鉢植えとして定着したのは、徳川時代のことである。そのせいだろうか、両者ともに唐物くさい異国風の名前が付けられていて、観賞の歴史の浅さを表しているようである。
水仙は、別名「雪中華」と呼ばれる。しかし、今年の冬は全国的に雪が少ない。京都でも、今のところ雪はほとんど見られない。海の向こうからは、狂い咲きの花が咲き始めているというニュースが飛び込んでくる。日本はそこまで暖かくないが、寒くても咲く水仙の花には、本当は雪があった方が似合うというものだ。聖護院横、泉徳寺で撮影。
何と、早くも梅がほころび始めた。一月中旬といえば、まだ一足早く咲く蝋梅がようやく花を見せ始める季節だ。今年はやはり暖冬なのであろう。祇園・建仁寺横の豊川稲荷のお狐さまの隣にある、小さな梅の木に一輪の紅梅がほころんでいた。よく見ると、他のつぼみもすでに赤くふくらんでいる。開花はもう間もなくだろう。
南禅寺の数多い塔頭(たっちゅう。脇寺)の一つの聴松院は、建仁寺横の禅居庵と同じく、摩利支天を本尊に祀る。そのためお堂の両脇には、ちゃんと今年の干支のイノシシが鎮座しているのだ。イノシシは、軍神摩利支天を乗せる聖獣なのである。
その境内にある、白梅がもうほころんでいた。やはり暖冬なのか。今日も朝は0℃まで冷え込んだが、昼間は大変穏やかで暖かかった。これから先も厳しい寒さは当分なさそうだ。旧正月の一ヶ月も前に、早くも梅の季節となろうとしている。
「椿」の字でツバキを意味するのは、日本独特の用法。元来この漢字が表すのは、八千年をもって春と為すという、中国の伝説上の大木のことである。だから、「椿寿」(ちんじゅ)と言えば、これは長寿のことを意味する。木へんに春だからツバキに当てたのは、草かんむりに秋の字でハギを意味させたのと同じ日本人の運用である(「萩」の字の元来の意味は、ヨモギのこと)。
木へんに春の字を当てたぐらいだから、この花は春まで楽しめる。しかし、春にはもっと華やかな花々が勢ぞろいするために、椿の花はかえって花の少ない冬のほうが目立ってしまう。その花も、丹精込めた紅白の絞りなどは大変立派で美しいのであるが、そこら中の生垣などに植え込まれている花となれば、これはどうも美的感覚に訴えるところが乏しい。知ってのとおり、椿の花は首が転がり落ちるようにぼとりぼとりと落ちて散る。それが庭園の椿などならばまだ風情があるのだが、その辺の道端に面した生垣ではアスファルトの道路に無残に落ちて踏みしだかれ、まさに虐殺シーンである。だから、私は普通に晩冬に見られる椿の花は、好きでない。だがまあこのように水鉢にでも花を浮かべてお化粧をすれば、観賞に耐えられると言うものだ。粟田口青蓮院前の、『ぎゃらりーDodo』店前で撮影。
子曰く、「歳寒くして、然る後松柏の彫(しぼ)むに遅るるを知る。」
― 論語・子罕篇
間もなく節分。今年の節分は久しぶりの寒気が襲ってきそうな天気予報であるが、節分を境として冬の極みは終わり、日は長くなって春が近づいてくる。桜も楓も葉を全て落とし、春に備えている今日この頃であるが、松の木は冬になってもその青さを変えない。孔子の上の言葉は、松や柏(はく。この場合はコノテガシワ)が冬になって他の草木が衰えるのに反して緑を保ち続ける姿に感銘して、それを君子の姿になぞらえたものである。君子の真価は、世間みなが正しからざる逆方向を向く寒々とした時代において、正道を保ち続けるところにあるのだ、と孔子は言いたいのである。
京都市中で有名な松の木といえば、たとえば黒谷(金戒光明寺)の境内にある、人呼んで「鎧掛けの松」。平敦盛を討ち取った熊谷直実が、世をはかなんでこの黒谷の法然上人のもとに赴いて、鎧を捨てて剃髪した。その鎧を掛けたのが、この松であったという(ただし古木は枯れてしまって、これは二代目)。『平家物語』や幸若舞曲『敦盛』に描かれている、自分の子供ほどの若武者を討ち取ってしまった直実の改心の物語にまつわる松である。もっともこれは『平家物語』作者の創作であって、敦盛を討ったことが直実の出家の理由ではなかったというのであるが。
とは言え、直実がこの黒谷で出家して、庵を構えたのは事実である。広大な寺院で、徳川時代には特に繁栄した。急峻な階段の上に三門を置く縄張りは、同じ浄土宗の総本山である知恩院とどこか共通している。
日本最初であった京都の市電は、昭和の半ばにはもう消滅してしまった。古い車輌がいくつか各地で保存されているが、その一つが御池通に面した一角に、ひょっこり保存されている。とある幼稚園の園内にあるので、じろじろ見回すのはやめたほうがいい。
ふと振り返ったとき、思わず写真に撮りたくなる風景に出くわすことがある。
これは青蓮院横の粟田小学校前で撮った、夕暮れの風景の写真である。
何ということはない、洛東の情景である。向こうに東山が見える。日本の街並みにはおなじみの、電柱と信号機がある。少し歴史を感じさせる、古い倉などが見える。道の奥の粟田神社を示す、看板がある。一応京都を感じさせる小道具が写っているが、ただそれだけである。名所など何もない。
ただ、こうやって写真を眺め直して、言えることは― この風景には、挟雑物がない。最も新手の文物は、アスファルトに電柱と信号で終わっている。昭和半ばに現れた風景から、前に進んでいない。あえて言えば、それがこの風景で非凡なところなのかもしれない。この風景には、昭和末年から日本中の街並みに無限に増殖した、プラスチックの感触がするコンビニ風色彩が侵入していないのだ。
日本人の日常風景を今や一色に塗りつぶしているのは、きっとコンビニの中のそれである。コンビニの中に入れば、最も清潔な色彩の店内が全国一律の規格で歓迎してくれる。陳列された商品は、データを集めて慎重にマーケッティングされた売れ筋商品ばかりである。それどころか地方ごとの特色や特産品ですら、きめの細かい商品管理によって地方ごとにアレンジされて店頭を飾っている。このように最も清潔で、かつ最も多様な世界がコンビニの中には展開されているのだ。この魅力に、誰が抗うことができようか。日本人の心は、今やコンビニの風景に完全に征服されている。
だが、コンビニは閉じられた世界である。閉じられた中だけで、綺麗で楽しい世界が作られている。それは、アキバ、カラオケBOX、ソープランドと同じ世界である。くしくも現代の日本が異常発達させているこれらの世界は、全て閉じられた中だけが綺麗で楽しい世界なのだ。その欠点は― 外の世界を見ないことだ。これらの世界は、一歩外に踏み出した風景と、決して調和することはない。
この洛東の一風景は、辛うじて現代日本の日常であるコンビニ=アキバ=カラオケBOX=ソープランドの風景から免れていた。だから、被写体になりえる風景であった。ただそれだけだ。このような風景が珍しくなったこの国は、何とグロテスクに進化してしまったのであろうか、と立ち止まって思う。
今日は、桃の節句。といっても、桃の花など巷のどこにも見当たらない。それは当たり前であって、旧暦で言えば今はまだ新春一月だ。桃の花が咲くのは、桜とほぼ同時期の清明(せいめい)の節気の頃。新暦で祝うからなんとも締まりがないが、とにかく今日は雛祭りの日である。
三十三間堂の隣にある、法住寺。大陸様式の寺門が、愛らしい。この門から禅宗寺院であるかのと思えば、天台宗であった。
今でこそこの「法住寺」と名乗る寺は、隣の三十三間堂に比べるとずいぶん小さくなっている。しかし、もともとの「法住寺」は、藤原氏の広大な私寺であった。それが平安時代半ばに焼失して、衰微してしまった。その寺地に、後白河上皇は「法住寺殿」を営んだ。平氏政権と癒着した上皇の、広大な院御所であった。隣の三十三間堂も、近くにある新日吉神社も、上皇が建てたものである。しかし、木曾義仲が平氏を追って京に入り、院御所を焼き討ちしてしまった(法住寺合戦)。その後、思い出深きこの地に葬られた上皇の陵墓を守るために、同名の寺が再建された。それが、現在の法住寺である。
境内には、美しいしだれ梅が咲いていた。栄華の輝きなどは、木々が作る花の一輪にすらかなわないではないか。
今の季節は三寒四温と言うが、それどころではなくてずっと寒い日が続いている。
今日は、聖パトリックデー(Saint Patrick's Day)。アイルランドにキリストの教えを持ち込んだ守護聖人のための祝祭日で、本国のみならずニューヨークやロンドンなどでも、今日は大きな祭りが催される。この日のシンボルカラーは、緑色。シャムロック(Shamrock)という緑色の三つ葉のクローバーが、シンボルだ。まさしく今は寒い冬が終わって、野が緑色に芽吹く季節のはずなのだ。なのに、今年の日本は、日中ですら寒々とした風が吹く。芽吹き始めた柳も葉をいまだ伸ばしきれずに、強風にあおられるばかりだ。
そんな寒い日々が続く中でも、桃と山須萸(さんしゅゆ)の花は、すでに盛りとなった。四条河原の歩道に、赤と黄色の花が競演して、雲ちぎれる青空を彩る。春の色は、こうして目にも鮮やかだ。桜はまだか?
北陸で大地震があった。犠牲者が出たことは、誠に痛ましいことである。しかし田舎の地域を直撃した地震は、これからの復興がますます難しくなるだろう。今、日本の地方は体力を消耗している。地震が地方にとって今の被害と長期的な衰微の二重の災いとならないことを、祈るばかりだ。
地震では、古い寺院や家屋が集中して倒壊していた。この京都も、ひとたび大地震が来れば寺社の多くが壊滅するかもしれない。京都は非常に長い間、大地震による被害に見舞われていない。だから戦乱が終わった徳川時代以降は建物がよく保存されている(近年起った最大の破壊は、幕末の蛤御門の変による長州対幕府の戦闘による焼き討ちである。これによって鴨川以西の京都市中は壊滅した)。
だが、この日本で地震の脅威から免れている土地など、どこにもないのだ。現に、東山から比叡山地に向けて、活断層が走っている。
そんな憂いの中、今日気象庁によって京都市内での桜の開花宣言が出た。すでに、早咲きの桜はあちこちで開花している。写真は、知恩院の塔頭(たっちゅう。脇寺)の、保徳院の桜。
平安神宮前を流れる疏水のほとりも、桜並木が見事である。
今は、まだ咲いていない。しかしつぼみが赤くふくらんで、はちきれるようだ。これからあっという間に、満開となるだろう。背後の柳はすでに青めいて、春の装いとなった。
ようやく寒さがゆるみ、白川の柳が一斉に青めいた。
生命力の強い木である。中国人は、古来からこの春の柳の芽吹きをこよなく愛した。春分の二週間後の清明節を飾る樹木は、何といってもこの新緑の柳であった。冬には魚の骨のようだった弱々しい枝から、わずかの間に芽を出してこんなにも初々しく生え繁る。これぞ、春の神秘の情景だ。
三条通りが白川を跨ぐ橋が、白川橋である。橋の沿いに、このような石碑が建っている。
是よりひだり、ちおんゐんぎおんきよ水みち
石碑の脇にも、文字が彫られている。読み下すと、このような内容である。
京都無案内旅人ノ為ニ、之ヲ立ツ
延宝六年戌年三月吉(日?)、施主、二世安楽ノ為ニ、、、
石碑のとおり、この川を下っていくと、やがて知恩院の門前に出る。さらに南に行けば、祇園かいわい。祇園を過ぎれば、清水寺への道となる。三百余年前と同じく、この川沿いの道が観光客への案内となっていることには、変わりがない。
桜の季節が、やって来た。
いや、やって来てしまったと、言うべきか。
満開ともなれば、花の景色を見ることは、それから一週間も続かない。
ちるはさくら落つるは花のゆふべ哉(安永九・二・十五)
蕪村の桜の句ならば、私としては、まずはこのうたを。
手まくらの夢はかざしの桜哉(安永二・一・二七)
桜の季節は、一瞬の夢である。酒でも手にしながら、川を見に行こうか。
この三月末には、私鉄二社が廃線となった。
今や、人口の停滞によって新線が建設されるのは、ほとんど東京圏だけとなってしまった。隠れ鉄道マニアの私としては、淋しい時代となってしまった。
だがこのインクラインは、すでに廃線となってから五十年以上が経過している。線路の上を車両が走ることは、すでに絶えて久しい。今は線路だけが残されて、花の下に休んでいる。
明治時代の琵琶湖疏水建設事業の一環として、台車に舟を載せて高地まで引っ張り上げることを目的として敷設された。滋賀県と京都府との間には、比叡山塊が延びていて交通の難所となっている。その利便を図るために、疏水とインクラインを使って舟運のルートを開通させたのであった。
だが舟運の意義は、鉄道と自動車によって意義を失った。それで、順当に廃線となった。しかし、市街地を走る鉄道ではない特殊な路線であったから、更地にされることもなく残された。元はこの横の路面を走っていた京阪京津線は、地下鉄の開通によって廃されて、今や跡形もない。
建仁寺は、祇園発祥の寺。この寺は日本で初めて茶の栽培を始めた寺として有名であるが、その茶園があった境内が、後世に祇園の茶店となった。東洋では茶店、西洋ではカフェが都市の中でまず社交の場として花開いた。茶とコーヒーという代表的な嗜好品を巡って、人が集まってくるのであった。だが社交の場であるから、やがてあっちの関係の遊びをさせる店もまた、混入してくる。そうやって、東でも西でも自然に歓楽街が形成されていったのだ。ちょっといかがわしくてなおかつ快い刺激こそが、かつての茶店やカフェの持つ磁力であった。現在ではすでにこのような場は、インターネットの世界に移っているのであろうか?
今は静かな寺の門前も、春になれば辻に花が咲きこぼれる。こればかりは、道行く人を見返らせずにはいられない。それほどに、桜は刺激的で官能的な花である。
比待(ころまち)得たる桜狩り、比待得たる桜狩り、山路の春に急がむ。
謡曲『西行桜』は、全文が名文。京都市中の桜の名所が、謡(うたい)の中に色々と出てくる。
上なる黒谷下河原、昔遍昭僧正の、憂き世を厭ひし花頂山、鷲の御山の花の色、枯れにし鶴の林迄、思ひ知られてあはれなり、清水寺の地主の花、松吹風の音羽山、爰はまた嵐山、戸無瀬に落つる、瀧津波までも、花は大井河、井堰に雪やかかるらん。
ここ清水寺に、境内にある地主神社、音羽山の桜もまた、謡曲の作られた室町時代当時からの桜の名所であった。
埋木(うもれぎ)の人知れぬ身と沈め共、心の花は残りけるぞや、花見んと、群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の、咎にはありける。
西行法師が隠棲する、西山の庵室の桜を見ようと見物の客がひきもきらない。修行のさまたげとなることを嘆じた法師が、上の歌を歌った - 花を見ようと群れて人が来ることだけが、惜しや桜の咎ではないか - 。その夜、法師の夢枕に桜の老木の精が現れて、法師の歌を難じる。どうして非情無心の草木に、憂き世の咎がありましょうか。それでも桜の精は今宵法師と会合できたことを喜び、やがて夜が明け夢が覚めていくことを惜しみつつ、幽玄に消えていくのである。
夢は覚めにけり、夢は覚めにけり、嵐も雪も散り敷くや、花を踏(ふん)では、同じく惜しむ少年の、春の夜は明けにけりや、翁さびて跡もなし、翁さびて跡もなし。
しかし、この清水寺は桜の名所であると共に、紅葉の名所でもある。桜の花の陰では、楓の若葉が今にも萌え出し始めている。花は散っても、ここは新緑に包まれるであろう。いかで夢ぞ覚めんや。いかで夢ぞ覚めんや。
ここは、京都女子大前。
キャンパスを左右に控える通りも、花のトンネルと化していた。
大学のみならず、どこの学校でもたいてい一本ぐらいは桜の木が植えてある。入学式・始業式のシーズンに合わせて、新しい学校生活を始める諸君に、満開の花を披露することになるのだ。私個人は新学期のシーズンで心躍った記憶があまりないのだが、、、個人的経験は、この際置いておこう。
学校の桜は全国どこでも見られるものなので、私はあえて被写体としていない。
だが、このキャンパス通りは、その向こうにも桜がある。
東山、阿弥陀ヶ峰の頂には豊臣秀吉の墓所がある。
彼の死後、墓所の麓には壮大な豊国社が建立された。
しかし、家康はこの神社の存在を許さず、北政所の嘆願を無視して徹底的に破壊した。それで、徳川時代を通じてその遺構は全く消えた。
しかし、徳川幕府の終焉と共に、明治時代になって豊国神社が方広寺の敷地内に再建された。この秀吉の墓所も整備されて、社殿がしつらえられている。社殿の背後に控える阿弥陀ヶ峰には、頂上に秀吉のための五輪塔がある。以前に一度登ったが、ひたすら続く石の階段が長大であった。真夏の最中であったので、ひたすら汗が吹き出た。
灯篭には、豊臣家の桐紋がある。その周りにも、桜が巡っている。
だが本物の桐の花の季節は、桜が散ってから間もなくやって来るだろう。
花の盛りは、過ぎた。
今はもう、風がそよと吹けば散るばかり。一週間前には満開の桜を脇に並べていた高瀬川も、散った花びらが水面を埋め尽くす。
今や風俗街になってしまっている四条高瀬川沿いに、かつての小学校跡がある。
立誠小学校は、平成五年に廃校となった。
この校舎は昭和初期に建てられた、建築遺構である。時代を反映して、アール・デコ流の直線とアーチを用いた簡素でかつ華麗な様式が取られている。現在はどうやら市によって一応は再利用されているようだ。
校舎の脇には、御衣香の桜が咲き始めていた。他の桜が散り行く中で、遅咲きの花をこれから咲かせようとしている。不思議な淡緑色をした花の色は、はかないソメイヨシノとはまるで違った趣き。花は咲き続け、人は生き続ける。今は子供たちの声が消えたこの校舎も、人々のためにもっと積極的に利用してほしいものだ。つぶすなんて、とんでもない。
藤の、季節である。
この花は日本原産。漢字の「藤」の原義は、単につる植物の総称に過ぎない。
藤原氏のシンボルであり、佐藤、斎藤、伊藤、、、など、日本でこの花の字を持った姓は最も繁栄している。
『源氏物語』でも、藤花の宴が出てくる。宮中の藤壷の藤が花盛りのときの出来事である。藤の淡い紫の色は、古風で懐かしい女性美の象徴であろうか。同じく今の時期を盛りとしている牡丹の花は、これ見よがしに一輪一輪が咲き誇る。それに比べて、この花の美しさは、寄せ合ってすら静かに控えている。
藤の花今をさかりと咲きつれど船いそがれて見返りもせず
坂本龍馬
忙しい今の時代には、合わない花なのかもしれない。
東山の安井金毘羅宮は、崇徳天皇を祀っている。天皇は、藤の花をこよなく愛したという。それで、境内には天皇にちなんで、小さな藤棚がしつらえられている。残り桜の後ろに、淡い紫の花が咲いていた。
竹の秋、という。
初春から仲春にかけて、冬にも青々しかった竹の葉が、にわかに黄ばんでくる。
そして、春風が吹くたびに、その葉を落としていくのだ。ゆえに、「竹の秋」は春の季語である。
どうしてか?
― それは、竹林が筍を育てるためであるという。地下の筍を一気に大人に成長させるためのエネルギーを送り込むために、一時的に余計な葉を落としてしまう。そうして、筍は夏までには若竹となって、青く光る大人の姿に変わるのである。
霊山護国神社の近くにある正法寺の境内脇にも、竹林から生え出た筍が大きく育っていた。このまま放置すれば、すぐに竹の皮を脱いで大人になるであろう。ものすごい生命力である。
だが、こうしてゲリラ的に生える若竹は、時として造園の邪魔となる。現に、この正名寺でも以前境内に大きな筍が生え出ていたのを見たことがあったが、しばらく後に再訪すると切り取られていた。「竹害」という言葉すらあるのが、悲しいかな現状なのである。
しかし、竹は筍のみならず、成長した木ももっと有益な用途があるはずなのだ。木質で固く、なによりも成長が早い。竹材を使ったオフィスインテリアが、エコフレンドリーと言われるゆえんである。数十年後には、成長した先から片っ端に切られて積み出されるようになっているかもしれない。
今日は夏日になったかと思いきや、後で調べればまだ三〇度に届いていなかった。
だが、もう春も終わりである。すでに、日の光は暑さを感じさせる。
まだ長ふなる日に春の限りかな(安永五・三・十五)
けふのみの春をあるひて仕舞(しまい)けり(明和六・三・十〇)
今日は、旧暦の端午の節句。中国文化圏では、詩人の屈原の霊を祭るための日として祝われる。屈原は戦国楚国の貴族であったが、王にその献策が容れられず疎まれ、多くの憂憤の賦(ふ)を書いた。やがて楚は秦に敗れて王は捕われ、彼はついに政治に絶望して汨羅(べきら)の淵に身を投げて死んだという。端午の節句は、川に沈んだ屈原の霊を慰めるために、水上での祭りが行なわれる。彼の故国の楚は長江流域で、日本と同じ季節に梅雨前線の影響を受けて雨が降る。屈原の祭りは水の祭りであり、雨の祭りでもある。
さて、しかしながら今年の日本の梅雨は、どこに行ったのであろうか。紫陽花の花はいたるところで花盛りであるが、雨は時々季節を思い出したようにしか降ることがない。これからようやく梅雨も本格化するであろうという天気予報はあるものの、もし予想が外れれば今夏は水不足だ。台風も困るが、水不足も頭の痛い話だ。
祇園・白川沿いも、紫陽花やガクアジサイの花盛り。紫陽花の花が観賞されるようになったのは実に明治以降のことであって、それ以前は厠(かわや)のそばの花として忌み嫌われていた歴史があった。彩りの少ない梅雨時を飾る水色の花は、今や押しも押されぬ六月の花。
東日本に台風が近づく2007年9月6日、夕暮れの東山に虹がかかった。
虹は、はっきり見える主虹と、その外にできる副虹がある。この日は、副虹もこのようにきれいに東山連山の彼方に掛かるのを、見ることができた。きわめて珍しいことだ。
夕暮れの東山に、虹が落ちる。カメラを遠くにすれば、主虹と副虹の間が周囲よりも暗くなる現象が、はっきりと写っている。
虹が落ちる先にあるのは、清水寺だ。
山水寺社はいつ訪れても待っていてくれるけれども、天地気象が作り出すこのような瞬間を見ることができるのは、生涯にもそうそうあることではない。土地に住んでいても、一生見ることができずに終わる人もいるかもしれない。たまたまこの時私を外にいさせてくれたことを、天に感謝したい気分だ。
思わず口ずさむのは、、、
♪きーみーとぼーくは、いつでも、こーこーであっているのーさー、、、
― 虹の都?
やめんかい!ひねりがなさすぎるで、、、
雪がうきうきするぐらい降った、そんな朝。私はある人に言伝てあって、手紙をやったんですよ。しかし雪のことについて、書きそびれてしまった。そうしたら返事が帰って来て、こう書いてあった。
― 「この雪、いかが見るか?」という一言すら、書かれていない。そんな無粋なお方のおっしゃることは、聞きたくない。返すがえすも、貴方の御心、情けなし。
これは、やられた。感心した。
今はなき、とある人のことです。これだけのことだけれど、忘れがたい思い出ですよ。(徒然草 第三十一段を訳す)
なには女や京を寒がる御忌詣(明和六・一・二七)
京都では雪が降っても、難波(なにわ)ではからりと晴れていることが大抵だ。今日も、たぶんそうなのだろう。
御忌(ぎょき)とは、法然上人の忌日のこと。もとは旧暦一月十九日以降、東山の知恩院にて開祖を偲ぶ法要が行なわれていた。だから、上の蕪村の句に詠まれたがごとくまだ寒い早春の行事であったのだが、知恩院のホームページによると明治以降月を遅らせて現在は四月の行事となっているとか。だから、もはや御忌詣と寒さは、季節はずれ。
やぶ入の夢や小豆の煮(にえ)るうち(明和年間)
「薮入り」という語も、とっくに亡んでしまった。もとは旧暦一月十六日のことで、この日に都市で下働きをする奉公人たちが休暇をもらって、実家の父母に会いに行く。つまり「養父(やぶ)入り」から来た言葉であるという。昔は電話も自動車もなかったゆえに、都市で働く子弟たちが実家と連絡できる機会などは盆と正月ぐらいよりない。だから、薮入りは大切な帰省の機会であった。蕪村の句は、実家でささやかに小豆を炊いて子供の里帰りを迎える景色を詠み込んだものだ。しかしこの句も彼の古典趣味に則ったもので、漢籍の『黄梁一炊の夢』の説話と引っ掛けているのだ。漢籍の説話で廬生が見た夢は壮大な栄枯盛衰の一代記であったが、蕪村流に日本化されれば実家で夢見るほのかな夢は、きっとたわいもないものであろう。
青蓮院のクスノキは、常緑樹で年中青い。青い葉に、雪がかぶさった。昼なおしんしんと寒いが、時折雲の切れ目から注ぐ光は、確かにもう春を告げている。